「あなたのことが好きですよ」
「では、ラスティ様。なにかお困りのことがあれば、遠慮なくお呼びください」
シェリルと名乗ったメイドは、寝台脇の棚に小さなベルを置いた。
「ただし、いつも聞こえる場所にいるとは限りません」
と、肩をすくめ、粗相を誤魔化すように笑う。
この屋敷の規模はわからないが、ヴィオレットに仕えるメイドは彼女一人らしい。
当然、至れり尽くせりというわけにはいくまいし、ラスティだってそんな手厚い看護は望んでいない。
「早く快復なさるといいですわね。きっと、すぐですわ」
シェリルの笑顔は、無邪気で眩しい。
本当に可憐な娘だが、心がほっこりと温まるだけで、もっとお近づきになりたいとか、触れたいとか、ましてやベッドに引きずり込みたいとか、そういう劣情を感じることはなかった。
まるで高潔な僧にでもなってしまったかのようで、ラスティは無欲な自分にやや戸惑う。瀕死の重傷を負った後遺症だろうか。
「……あのさ」
「なんでしょう?」
疑念は放置して、とりあえずシェリルへ思ったことを語り掛ける。
「敬語、使わなくていいよ。『様』って呼ばれるのも、気恥ずかしい」
すると、シェリルは目を瞬かせた。それから、くすっと笑う。
「いえ、だって、あなたはヴィオレット様と血を分けた方ではないですか。それは即ち、あの方の血縁者ということになります。だから、わたくしはあなたに礼を尽くす義務があります」
「そんな……」
反論しようとすると、メイドは真剣な顔をして、首を横に振った。
「形式的なものではないのですよ。わたくしの『カルミラの民の従者』としての本能が、あなたにも傅けと告げているのです」
そして、声をぐっとひそめた。
「あなたはきっと、ヴィオレット様の力の一端を……あるいは多くを、受け継いでいるのでしょうね」
「……はぁ」
そんなことを言われてもまったく実感がなく、ラスティはなんとなく頭を掻いた。
「それに――」
シェリルに笑顔が戻る。先ほどまでのものよりも格段に華やかな、本当に嬉しいことがあったときに浮かべる、大輪の花のような笑み。
「ヴィオレット様、あなたと話しているとき……いいえ、お風呂に入れているときから、とても楽しそうでした。あんなによくしゃべるヴィオレット様を見たのは、本当に久しぶりです」
「……とても楽しそうだった、って?」
つい眉をひそめたが、思い返してみれば、確かにそんな気がする。それに、態度は始終高圧的だったが、悪意や嫌悪は一切感じられなかった。
出会ったばかりのラスティがそう感じるのだから、遥かに付き合いの長いこの少女が言うことは、きっと間違いないのだろう。
満面の笑みのまま、シェリルは続ける。
「だから、わたくしもとても楽しいし、あなたのことが好きですよ」
『好き』。
他人から初めて告げられた好意。それはラスティの胸を強く打った。
眼前の少女がとても愛おしく感じる。
けれどやはりそれは、恋愛感情や色欲とは異なるものだった。
***
それから数日。
ラスティは一日のほとんどをベッドの上で眠って過ごしながらも、己の肉体に生じた変化を徐々に、だか確実に悟っていた。
まず、ほとんど腹が空かない。『食欲不振』とはまったく違うものだ、と身体の調子から察することができた。胃が悪くなっているのではなく、肉体そのものが食事を欲していない。
日に数回シェリルがやって来て、果物や焼き菓子を『はい、あーんしてください』と与えてくれるが、数口で満足してしまう。
幼児ごっこが気恥ずかしいから食欲がなくなる、というわけでもない。
それゆえにか、排泄もほとんど必要としなかった。身を起こすだけでふらつき、腹が痛むため、これは都合がよかった。
だがやがて、体調がいつまでたっても万全にならないことに、言い知れぬ不安を感じるようになってきた。やはり、自分は死の運命から逃れられないのではないか、と。
その憂患を察したらしいシェリルが、あるじへ奏上したのだろう。
ある日の夕刻、眠りから覚めると、ヴィオレットがまじまじと顔を覗き込んできていた。
ヴィオレットの訪問は、この数日間でたびたびあった。朝晩問わず気紛れのようにやってきては、一方的にしゃべって帰っていったり、ただ椅子に腰かけてぼうっとしていることもあった。
けれど、ここまで接近されたことは未だかつてなく、ラスティは驚きのあまり目を白黒させた。
「い、いきなりなんだ」
「起きてみろ」
ぶっきらぼうに命じられ、ラスティは上体を起こす。やはり眩暈がして、顔をしかめる。
「快復が遅いな」
ヴィオレットはうつむいて眉間にしわを寄せ、何事かを思案する。そのひどく難しい顔に、ラスティは『運命の三女神』の神話を思い出し、自嘲気味につぶやいた。
「……やっぱり、俺の命はこれまでか。俺の『運命の糸』はとっくに切られちまってるんだろうな」
断ち切られたものを、強引に繋ぎ直しただけ。きっと、冥府の神は怒っている。
しかしヴィオレットは、呆れたように『はぁ』と嘆息した。
「神話は読み物としては秀逸だが、我々はなにも信奉しない」
それから独り言のようにぼそりと言う。
「……やはり、これしかないか……」
ためらうように視線を彷徨わせたあと、ヴィオレットは己の人差し指の先に歯を立てた。
ちらりと見えた白い『牙』は恐ろしいほど鋭く尖っており、彼女が『吸血鬼』と呼ばれる存在であるとラスティは改めて思い知った。
ヴィオレットが指から口を離すと、みるみるうちに傷口に赤い珠が浮かび上がる。
「……!」
鮮血を見た瞬間、ラスティの肉体は雷に打たれたかのように硬直した。視線を外すことができない。
頭の中がざわざわして、ごくりと喉が鳴った。
運命の三女神:ギリシア神話と北欧神話にそれぞれ類似の女神がいる。人間の運命の糸を紡ぎ、長さを測り、そして断ち切ることで死へと導く。




