ご褒美は口づけ
「君のベッドの下で寝かせてくれるのならば、それでもいいよ」
エドマンドの腕が伸ばされ、女性のように繊細な指が、ヴィオレットの頤を捉えた。
これをやられたのが起き抜けだったら、すぐさま横面を張り倒していただろう。だが、今はしゃっきりと目が冴えており、短気を起こすに至るまでやや余裕があった。
二人の視線が真っ直ぐにぶつかる。エドマンドの金色の瞳は宝石のように輝いており、その中にヴィオレットの仏頂面が映っていた。
「足置きになるのがお前の趣味だったか」
やや侮辱的に言い放ったが、エドマンドは気にした様子もなく、目を細めて口を開く。
「踏むときは素足で頼むよ」
その道化た言葉に、ヴィオレットは陥落した。ふふ、と破顔し、こちらも戯言を返す。
「いいや、指を舐められては困るから、きちんと靴を履いた上で踏みつけてやる」
「そこまで犬になりきる気はないよ」
とエドマンドは苦笑したが、瞳の奥にはたいそうな喜悦の色があった。そういえば、彼とこんなに気安い会話をしたのはかなり久しぶりな気がする。
先ほどよりも和らいだ空気の中で見つめ合っていると、エドマンドの喉が動き、その口から甘い囁きが流れ出た。
「今朝のぼくの訪問は役に立っただろう? ご褒美をくれるかい?」
押し黙っていると、エドマンドの顔が接近してくる。まだ、ラスティとシェリルの足音は聞こえてこない。
くちびるが触れるギリギリまで、拒絶か受容かを逡巡したが、結局黙って瞼を閉じた。雰囲気に流されるのもたまには悪くないだろう。
重ねるだけの口づけは、児戯のようなものだったが、湿った粘膜同士がぴったりくっついて、名残惜しむように剥がれていった。
「ありがとう」
エドマンドは、妙に爽やかな表情をしていた。キスのあとに礼を言うなど、そんな殊勝な男だっただろうか。
やや訝しげな視線を送ると、エドマンドは大きく伸びをした。
「さぁて、家主が無事に帰って来たんだ、ぼくはこれにて退散するよ」
「……そうか」
正直、犬扱いでもいいから居候したい、と言われたらどうしようかと思った。きっと、ラスティとのひとときをことごとく邪魔してくるだろう。
「あの錆頭の存在については、父上や母上にも黙っておくよ」
「……助かる」
エドマンドの両親には日ごろから世話になっており、ラスティのことを隠すのは不義理のように思えた。
だが、巨大一門の長オルドリッジが、ラスティに対してどんな行動を取るか、予測が難しい。同族として、また、ヴィオレットの知己として扱ってくれればよいが、稀有な超越者として手中に収めたがる可能性もある。
かといってラスティを永遠にこの屋敷で飼い殺しにしておくわけにもいかない。やはり、追々相談する必要があるだろうが、今日はいろいろあって疲れた。しばらくは、静かに過ごしたい。
しかし、いつまでもそうしていられないこともわかっている。ラスティのことだけでなく、ハリーのこと……。
今後の懸念に気分を沈めていると、エドマンドが再び手を伸ばしてきた。
「今日は、久方ぶりに美しい君の姿を見ることができてよかったよ」
と、髪を掬われ指先で軽く弄ばれた。感触を確かめ、それをしかと記憶するような素振り。満足したように手放したあとは、ふわりとした笑みを向けられる。
「じゃあね、ヴィー。壮健で」
「……ああ」
まるで今生の別れのような、もったいぶった挨拶をするものだ、と思った。
まぁ、そういう感傷的なおふざけがしたい日もあるだろう。
けれど、霧になって壁を抜けていくエドマンドを見送りつつも、強い違和感を覚えていた。
「ヴィー、お帰り!」
背後から、血を分けた男の声が聞こえた。足音が近づいてきていることはわかっていた。
振り返ると、目をきらきらさせたラスティと、にこにこと笑うシェリルが立っていた。
「ちゃんと無事に帰ってきただろう?」
得意げに言ってやると、近寄ってきた男にきつく抱き締められた。されるがままになっていると、拷問器具のように力が強まっていくので、それを上回る剛力を発揮して振り解いた。
怒気を孕んだ目で睨みつけると、ラスティは苦笑して頭を掻く。心配をかけた謝意としてキスでもしてやろうかと思ったが、もう少しだけエドマンドの感触を残しておくか、と踏みとどまった。
そのとき――。
「まぁ、エドマンド様ったら、コートをお忘れです!」
悲鳴のようなシェリルの声。彼女の視線を追うと、壁に漆黒のコートがかかっていた。
エドマンドに対して覚えた違和感の正体はこれだったのだ。エドマンドは、白いシャツとベスト姿のまま帰っていった。
「……あのバカ」
あれだけ格好つけて去って行ったからには、そうやすやすと取りには戻れず、されど放置することもしないだろう。
また近々、何食わぬ顔でやって来るに違いない。




