女に主導権を握られるのは嫌い
張り詰めた空気を乱したのは、扉を叩く小さな音だった。
「入るな」
グレナデンの短い警句。従者だと思ったのだろう。戦力として迎え入れるのではなく、火の粉がかからないように遠ざけようとしたのだ。
けれど、彼の気遣いに反して扉は開いた。
「ヴィオレット!」
切迫した空気を侵犯する明るい女性の声。
入室してきたのは、銀髪をお団子にした貴婦人。その数歩うしろで、グレナデンの従者たる少女がとても申し訳なさそうに首をすくめていた。
「まぁヴィオレット、久しぶりね! 愛しい子にこんなところで会えるなんて、幸運だわ」
「オルドリッジ夫人……」
図らずも、先ほどまで互いを服従させんとしていた男女の声が重なった。そしてそのことに対し、また双方が同タイミングで溜め息を吐く。
ここまで言動が揃うなどあまりに気色悪い。だが、やはり互いに同様のことを思っているのだろう。
「ヴィオレット~、相変わらず美しいわね。近頃はどう? 変わりないかしら? そのコート素敵ね、流行に合わせて新調したの? エドは迷惑をかけていない?」
矢継ぎ早に質問をしながら近寄ってくる夫人。間近までやってくるとその腕を大きく広げ、ヴィオレットの痩身をきつく抱き締める。上品な香水の香りがヴィオレットの心をだいぶ落ち着けてくれた。
抱擁に満足するとヴィオレットを放し、柔和な笑みを浮かべる。息子と瓜二つの容貌をしているが、年を重ねている分、いっそうの気品と落ち着きを感じさせた。
ヴィオレットはこのオルドリッジ夫人に頭が上がらない。いろいろな面で迷惑をかけ、いろいろな面で世話をしてもらった。
なにより、赤子のヴィオレットを産婆として取り上げたのはこのオルドリッジ夫人で、この世に生れ落ちる前から世話になっているのだ。
グレナデンも、古く強大なオルドリッジ家頭首の奥方に対しては文句の一つも言えまい。
「我が君」
気配を消して入室してきた従者が、恐縮し切った様子でグレナデンへと声をかける。
「申し訳ございません、お止めすることができませんでした……」
「いや、構わん」
と、男は再び大きく息を吐いた。気を削がれ肩の力が抜けたらしい。
「グレナデン」
ヴィオレットは石榴館の主人に向けて、淑やかに微笑みかけた。いざ心に余裕を取り戻せば、己を蔑み侮辱した者相手でも容易いことだった。
「どうしても私と寝たいというのなら、構わないわ。時期が来たら、我が元へ招待して差し上げましょう」
グレナデンは怪訝そうに目を細め、次いで嫌悪をあらわにした。『寝る』という明け透けな言葉が気に食わなかったのだろう。
その潔癖な態度に、ヴィオレットは失笑を禁じ得なかった。淑女然とした笑顔を崩壊させ、嘲弄だけを口元に浮かべる。
「おや、誘ったのはお前からだろう。それとも、強姦まがいの子作りはできても、和姦はお断りということか? 女に主導権を握られるのはお嫌いとみえる」
あえて下卑た言葉を選んだ。効果は絶大で、案の定グレナデンは苦々しい表情で押し黙る。
品のない物言いに呆れ果てたのではなく、ある程度図星だったのだろう。心の内を見透かされて沈黙したのだ。
生殖本能よりもプライドの方が遥かに高い。だがそれはグレナデンだけではなく、種族全体の問題でもある。
「無礼な!」
黙りこくる主人に代わり、従者が身を乗り出す。勇敢な少女に対して、ヴィオレットはとびきり優しい目を向けた。庭を無邪気に駆け回る子犬を見つめるかのように。――けれど、左目に強固な『力』を込めて。
「忠義者ね、モリィ」
「な、なぜわたくしの名前を」
「もう十年も前に聞いたわよ。この私が、あなたのような魅力的な娘の名を忘れるとでも?」
ぽかんと口を開けて固まったあと、モリィは耳まで赤くなった。視線をヴィオレットから外してあちこち彷徨わせ、初心な乙女のようにもじもじし始める。
「こ、光栄です、マクファーレン様」
途端、グレナデンがすさまじい動揺を見せた。モリィの腕を掴んで引き寄せ、胸の中に強く抱き締める。まるで少女をヴィオレットから隠すかのように。
「マクファーレン……! よくも!」
今度は、グレナデンが激しい怒りの炎を瞳に燃やしていた。それもそのはず、魂の半身である従者に手を出され、冷静でいられるカルミラの民はいないだろう。
ヴィオレットはモリィを『誘惑』したのだ。あるじに絶対の忠義を尽くす従者を誘惑することなど、普通はできはしない。
けれど、ヴィオレットには可能だった。それが彼女の血に宿る能力の一つなのだから。
もちろん、平生はそのようなこと絶対に行わない。『己の欲せざるところは、人に施すなかれ』というのは、人間の子どもでも承知している当然の社会ルールだ。
モリィはすでにヴィオレットの術に落ちている。もう一言誘惑の言葉をかけてやれば、己を抱くグレナデンを押しのけてこちらへ駆け寄ってくるだろう。
さすればグレナデンに最高の辱めを与えることができるが、我に返ったあとモリィは自刃せんほどに嘆き狂うだろう。そこまでは望んでいない。
ただほんの少し、グレナデンを玩弄することができればそれでよかった。
しかし今度はグレナデンが怒りに駆られてしまい、ヴィオレットは留飲を下げながらも思う。
――さて、この落としどころをどうするか……。