武装の理由
頭に血を上らせたエドマンドは、ひたすら叫んだ。
「許さん許さんっ!! ヴィーが許してもぼくが許さないっ! いやいや、ヴィーが許すはずがない。そんなこと彼女に言ってみろ、歯が欠けて鼓膜が破れるほど殴られるぞっ」
現にエドマンドはそうされたのだから。
いや、気絶して記憶があいまいだが、もっと重傷を負った気もする。血をたくさんぶちまけたらしく、翌日には絨毯が新調されていたっけ……。
記憶を掘り起こしていると、ラスティがしみじみと漏らした。
「でも俺は、自分の子どもが欲しいな」
慈愛に満ちた物言いに、エドマンドは思わずラスティの顔を凝視した。
これが、多くのカルミラの民には決定的に欠けている『父性愛』というものなのだろうか、と思ったからだ。
どうやら、ラスティの心にある想いは、ヴィオレットを我が物にしたいという欲望ではなく、『家族』への憧憬からくるものらしい。
ゆえに、エドマンドの怒りは急速にしぼんでいった。家族を作ることへの否定は、エドマンドの両親への否定だ。
だが、エドマンドの両親がたくさんの子を儲けたのは、カルミラの民の中で門閥家となり、権勢を振るう目的が大きいはずだ。
純粋な家族愛など、きっと同胞たちの中にはありはしない。
もしかするとこのラスティという男は、カルミラの民の生き方に一石を投じる役目を果たすのかもしれない。人間の心とカルミラの民の力を持つ、両極の存在として。
――そんなまさか。
――しかし……そうなれば面白い。
口元に手をやり、こぼれた笑みを隠す。
エドマンドが熱い視線を向け過ぎたせいだろうか、ラスティは困惑気味に笑い、ぽつりと言う。
「もちろん、ヴィーが良いと言えばだけど……」
「当たり前だっっ!」
テーブルを叩くと、茶器が派手な音を立てた。中身は半分よりも減っていたため、机上を汚すことはなかったが、それを用意してくれたメイドが応接室の入り口に立って、非難の眼差しを向けてきていた。
「おかわりは必要なさそうですわね。こぼしてしまいますもの」
「あーごめんごめん」
なぜかラスティが代わりに謝罪し、たったそれだけのことでシェリルに笑顔が戻った。シェリルとの付き合いはエドマンドの方が圧倒的に長いというのに、まったく面白くない。
むくれていると、ラスティの表情に真剣味が宿った。
「……で、ヴィーは本当に大丈夫なのか?」
おかわりを注いでくれているシェリルもぴくりと反応し、用が済んでも傍らに留まってエドマンドの答えを待った。
注目されたエドマンドは、二人を落ち着けるように低い声で答える。
「さっきもシェリルに言ったけれど、ヴィーがここ最近人間の生き血を吸っていないことは、彼女の覇気の無さからして一目瞭然だ」
「そうなのか」
目を丸くしたあと、ラスティはうつむいて考え込む。
「……うん、なんとなくそれはわかる。ヴィーはいつも元気がなくて、落ち込んでいるように見える」
こんな鈍感そうな男に悟られるほど、ヴィオレットは威勢を削がれている。エドマンドは痛ましさに目を伏せた。
ヴィオレットはかつて、『宵闇の女王』『健啖の具現』などと呼ばれていた。その名に恥じぬほど多くの人間を貪り、生命力にあふれ、神々しいほどに美しかった。
気に入った人間は決して放置しておかなかった。優しく接近し、暗闇へ誘い出す。そして静かに牙をむく。
吸血するだけでは物足りないときは憚ることなく我が物にしていた。
最盛期の彼女には、十人を越える従者がいた。ヴィオレットが選りすぐった美しい女たち。――そしてたった一人の男が。
その男の典雅な風貌、涼しい目元、自信に満ちつつも柔らかな声音を思い出すと、エドマンドの胸の最奥から怒りが噴き上がる。
「でも、どうして人間の血を吸わないんだ?」
ラスティの声で、エドマンドははたと我に返った。それは確かに、至極当然の疑問だろう。エドマンドもシェリルも、その答えを知っている。けれど、安易に話せることではない。
なんと誤魔化そうか迷っていると、ラスティからさらに質問が飛んできた。
「あんたは、吸っている……んだよな?」
「……当たり前じゃないか」
肯定するのにややためらいが生じた。カルミラの民としては当然のことだからこそ正直に答えたが、人数や回数、頻度について尋ねられたら答え難い。
エドマンドはここ数年、やや過剰に吸っている。もちろん失血死させないよう、何人もの人間を見繕って。
カルミラの民が必要以上に人間の血を求めることは、軍隊が戦に備えて武装することに等しい。その理由は即ち、『なぜヴィオレットが人間の血を吸わなくなったか』という質問の答えに繋がる。
ラスティはふーん、と首をかしげた。
「じゃあ、嗜好の問題か? 血の味が嫌い、とか……」
「ラスティ様」
シェリルが低い声で割って入った。
「その問いの答えは、ヴィオレット様からお聞きください。ただし、あの方が自主的にお話なさろうとするまで、決して口にしてはなりません」
「……ああ――わかった」
いつもは快活なメイドの深刻そうな声音に、ラスティは素直に頷いて口を結んだ。並々ならぬ事情があることを察したようで、これ以上の好奇心を発揮することはなかった。
エドマンドは、ぴしゃりと言ってくれたシェリルに謝意のこもった視線を送る。だが彼女はやや眉を寄せ、厳しい表情。無神経な質問をしたラスティに怒っているわけではないようだ。
シェリルが憤っているのは、『奴』のことを思い出したからだろう――とエドマンドは静かに悟る。
「では、わたくしはこれで」
声にほんのわずかな嫌悪をにじませ、シェリルは退室していく。
エドマンドは、その細い背中を追おうか迷った。彼女に、とある話をするかどうか決断できずにいた。
しかし今なら、その話を決して聞かせたくない女主人は不在だ。
結局、大人しくなったラスティを応接室に放置し、台所へ戻るシェリルを追った。
「シェリル。話があるんだけど」
「なんでございましょうか」
廊下だとラスティまで声が届く恐れがあるため、ひな鳥のようにシェリルの後ろについて台所まで歩く。
扉を閉めてから、何事かと首をかしげている少女に小声で告げた。
「まだはっきりしていないから、言うか迷ったんだけれど……」
「はい?」
曇りのないシェリルの眼を見ていると、ますます判断に迷う。だが、ここまで来たからには言わねばなるまい。
「――ハリーの目撃情報があった」
途端、メイドの全身から殺気が立ちのぼる。いつもは温厚な瞳が激しい怒りの炎に包まれ、威嚇する野生動物のように剣呑な雰囲気を帯びた。
「場所は、どこですか」
「カークライルの盛り場で。兄上の従者が、奴に似た人物を見たらしい。間近で確認しようと思ったときには、姿を消していたそうだ。だが、長い金髪の三つ編みが特徴的で、ほぼ間違いないのでは、と……」
「そう、ですか……」
シェリルは表情から憤怒を消し、ふわりとした笑みを浮かべる。ただし、そこに潜む殺意はいっそう強くなった。
「海の向こうへ逃げたとばかり思っていましたが、意外と近くにいたのですね」
まるで、『いい度胸だ』と言わんばかり。
エドマンドも、その話を聞いたときは同様のことを思った。あれだけのことを仕出かしておきながら、おめおめと国内に現れたか、と。けれど、探す手間が省けた。
「シェリル。君とぼくの目的はまだ一致しているね」
「もちろんです。……あの男を見つけ次第――」
二人は真っ直ぐ視線を交わし、同時に強く頷いた。
「――殺す」
エドマンドは、その日のためにずっと力を蓄えている。奴を見つけ、八つ裂きにするために。
「ヴィーはまだあの男に囚われている。あいつが奪った彼女の『右目』とともに、その心を取り返さなくてはいけない」
「……はい」
メイドは、顔をくしゃくしゃに歪めて頷いた。
健啖:好き嫌いなくよく食べること。