とにかくお兄ちゃんが元気に帰ってくればいいから
………
……
3月19日の夜。
ついに明日はシアトルへ旅立つ日だ。
滞在は3月20日の日曜日から3日間。
到着した日だけ晴子さんはお休みだが、加奈、レーちゃん、大翔くんの3人は3日間とも春休みらしい。
滞在先については数週間前に加奈からこんなメッセージが届いたんだ。
『あのね。ママがうちに泊まったらいいんじゃない、って』
『ほんとに!? やった! すごく嬉しい!!』
『うん。私も嬉しい。じゃあ、今から住所を教えるね』
なんと加奈の家に泊まることになったのだ!
これなら加奈とずっと一緒にいられる!
「ああ、なんて幸せなんだぁ」
加奈の家の住所を書きとめたメモ紙を眺めると、ひとりでに顔がにやけてしまう。
「そうだ! 当日のバスをもう一度調べておこう」
空港から加奈の住んでいる家まではバスと車を使う。
成田空港からカナダのバンクーバーという都市を経由して、シアトルの空港に到着するのが3月20日、日曜日の朝6時。
スマホでバスの時間を検索する。
「バスは……。リンウッド行き、午前7時35分発だな」
目的のバスターミナルには定刻通りなら午前9時頃につく。
そこからは車で10分の距離なんだそうだ。
晴子さんと加奈の二人が車で迎えにきてくれることになっている。
「あれ? スマホの電池がもう20%しかないのか」
今日は朝から散々シアトルについてスマホで調べていたから減りが早いな。
あとで充電しておかなければ。
でもその前に荷物のチェックだ。
パンパンのスーツケースを開いた。
「ええっと。着替え。あとは加奈へのお土産だな。これは春奈から。これは恭一から。ん? マリア先生からは安産祈願のお守りだと? おいおい、これはないだろ……」
そしてスーツケースのおよそ半分のスペースを埋めているリュックを手に取った。
ずっと部屋の片隅に立てかけておいたものだ。
「これを忘れるわけにはいかないよな」
リュックの中は言うまでもなく加奈との思い出がつまっている。
俺はそっとチャックを開いて、中に手を入れる。
ぱっと手に取ったのは白い貝がらだった。
「これは海に行った時に拾ったやつだ」
夕日を浴びた加奈の横顔。
今思い出すだけでも綺麗だったな……。
「ふふ。懐かしい」
そんな風に幸せな思い出にひたりながら、にやけている時だった。
――バンッ!!
「お兄ちゃあああん!!」
「のあああああ!!」
思わずリュックを背後に隠す。
その様子に香織は目を細めた。
「そのリュックは何? まさかエロい本を持っていくつもりじゃないでしょうね?」
「ば、バカ言うな! こ、これはノートとかスマホの充電器とか入れていくんだよ!」
俺は目に入ったものを言葉にして、リュックの中につめこんだ。
「ふぅん。あやしい。ま、どうでもいいんだけどね。ちょっと部屋借りるよ」
そう言ってドカリと部屋の真ん中に座り込んだ香織は、いきなりスマホで動画を見てゲラゲラ笑っている。
「おい! 自分の部屋で見ればいいだろ!」
「ええー! いいじゃん! ケチ!」
理由は分からないが、頑として動こうとしない。
まあ話しかけてくる様子もなさそうだし、このまま準備を進めていくか。
そう考えたのだが、どうも香織のことが気になって仕方ない。
そこで俺は何気ない質問をぶつけることにした。
「ところでレーちゃんに伝えて欲しいメッセージとかないのかよ?」
香織はスマホから目を離さずに答える。
「ないよ。だってKINEで毎日のように会話してるし」
俺は首をすくめた。
「そういうもんかね? 俺にはよく分からないな」
香織はちらりと俺に視線を送ってくる。
そしてそのまま俺の手元に目を移した。
「ところでなんでそんなに荷物が多いの? 普通は帰りに荷物が多くなると思うんだけど」
ドキッと心臓が脈打つ。
俺は努めて冷静に答えた。
「み、みんなから加奈へのお土産を預かってるからに決まってるだろ!」
「ふぅん。私はてっきり加奈さんとの思い出の品がいっぱい詰まってるから、とか言い出すのかと思ったよ」
香織の言葉を耳にしても、咳き込まなかったのは奇跡だと思う。
だってズバリその通りだったのだから……。
「そ、そんなわけないだろ!」
「ふぅん。懐かしい品々を持っていって、加奈さんと二人で思い出にひたりたい……って、がらにもなくロマンチックなことを考えてるんじゃないのぉ?」
まさに図星。
恐るべし、わが妹。
「そ、そんなことするわけないだろ!」
「ま、どうでもいいけどさ。私も明日はデートだから。準備しなくちゃ」
「で、デート!? 相手はまさか恭一……」
「んじゃ、お土産は腕時計でいいから。免税店で買ってきてね! お兄ちゃん!」
俺の言葉を無視するように勝手に話を切り上げて部屋を出ていく香織。
――バタン。
「なんだったんだ? いったい」
わけが分からず眉をひそめていると、すぐにドアが開けられた。
――ガチャ。
顔だけ覗かせた香織は、ボソリと言ったのだった。
「……とにかくお兄ちゃんが元気に帰ってくればいいから。ケガとか病気したら承知しないからね」
それだけ言って彼女は顔を引っ込めた。
最初からそれを言うつもりだったのだろう。
「香織のやつ……。まあ、素直じゃないのが可愛いんだけどな。そういうところ、お兄ちゃんは好きだぜ」
香織の姿が見えなくなったのをいいことに、俺はそうつぶやいた。
だが俺はすっかり見落としていたのだ。
まだドアが閉まっていないことに……。
「お兄ちゃんのバカ……」
消え入りそうな声が聞こえてきたかと思うと、
――バタンッ!!
壊れてしまうんじゃないかと思うくらいに大きな音を立てて、ドアが閉められたのだった。




