どうして私なんかのためにここまでしてくれたの?
◇◇
朝7時。
『おはよう、加奈』
『おはよう、雄太くん』
『じゃあ、学校でな』
『うん、またね』
私、加奈の朝はいつも雄太くんから始まる。
心がポカポカして、ねむけまなこがバッチリと開く。
終業式の日もそれは同じだった。
私にとっては高校最後の日。
それでも特別なことは何もなくて、いつも通りに顔を洗って、髪を整える。
「おはよう、ママ」
「おはよう! 加奈!」
玲於奈と大翔はそれぞれ中学校と小学校を卒業しており、まだ起きてこない。
「昨晩、渋沢光太郎元首相が肺炎のため亡くなりました。享年76歳。多くの著名人が哀悼の意を……」
いつも通りにテレビで朝のニュース番組が流れる中、私はママと二人で朝食を取った。
「今日が終業式だったわね」
「うん」
「みんなにお別れを言ってくるのよ」
「うん」
「それと……」
ママがそこで言葉を切る。
ちらりと顔を見ると、困ったような表情を浮かべていた。
その顔を見て、ママが言わんとしていることはよく分かった。
――雄太くんともお別れしてくるのよ。
だから私は小さな笑顔を作って言った。
「大丈夫だよ。ちゃんと言うから。ごちそうさま」
「う、うん……」
私はいつも通り、ママより先にご飯を食べ終え、家を出る支度をする。
もちろん今日は授業なんてない。
だから軽いバッグを肩にかけて玄関に向かった。
「いってきます」
「いってらっしゃーい! 気をつけるのよー!」
「はーい」
このやり取りもいつも通り。
そう……。
すべてはいつも通りだ。
いつだって教室の片隅で大人しくしていた私。
ドラマチックで派手なお別れなんて似合わない。
きっとクラスメイトのみんなも望んでなんかいない。
いや、むしろ私が今日で学校を去ることすら知らない人がほとんどだろう。
だって私は教室の片隅でひとりぼっちだったから……。
だからいつも通りでいいのだ。
終業式が終わったら、ひっそりと校舎を去ればいい。
そんな風に思いながら、学校までの徒歩20分の道のりを、いつものペースで歩いていた。
すると校門の手前で、意外な人たちから声をかけられたのだった。
「おはよう! 加奈ちゃん!」
遠山さんだ。
それにクラスメイトたちも何人かいる。
私が登校してくるのを待っていたのは明らか。
なんだろう……?
胸が騒ぐのを気取られないように、私は無理に笑顔を作った。
「おはよう。今日はどうしたの?」
私の問いに、遠山さんがニコリを笑顔を浮かべる。
「ううん! 別に! 教室まで一緒にいこっ!」
「う、うん」
断れるはずもなく、私を真ん中にして遠山さんとクラスメイトたちが両脇を固めた。
不安と戸惑いがごっちゃになって、何も考えられない。
校門から教室までのわずか3分の道のりが、今日は1時間くらいに感じられた。
そうしてついに教室のドアの前までやってきた。
ドキドキと高鳴った胸がはちきれそうだ。
でもそんな私などお構いなしに、遠山さんは勢いよくドアを開けた。
――ガラガラッ!
「加奈ちゃんがきたよー!!」
恐る恐る教室に入ると、そこには私以外のクラス全員が席についていた。
いや、一人だけ……雄太くんだけはマリア先生と一緒に教壇の上に立っている。
そして黒板には不自然に白い幕がかけられていた。
「加奈ちゃんはこっちね!」
遠山さんに促されるままに、私は雄太くんの目の前に立つ。
雄太くんは苦笑いを浮かべて、ぼそりとつぶやいた。
「俺は反対したんだぞ」
「え?」
「加奈はこういうの嫌いだって」
「どういうこと?」
私が眉をひそめた次の瞬間。
「せーのっ!! えいっ!!」
遠山さんの掛け声とともに黒板に張られていた幕が取られた。
そして私は目に飛び込んできた光景に言葉を失ってしまったのだった。
「うそ……」
中央には白いチョークで『遠藤加奈さん! ありがとう!!』という大きな文字。
端っこには私の似顔絵もある。
そして何よりも驚かされたのは、黒板を埋め尽くしたクラスメイトたちからのメッセージだった。
『いつもノート見せてくれて、ありがとう』
『英会話を教えてくれて、ありがとう』
『調理実習の時に手伝ってくれて、ありがとう』
一人一人の『ありがとう』が黒板から飛び出して、私の心の中に刻まれていく。
同時に沸き上がった感動が涙腺へ襲いかかり、とめどなく涙をあふれさせた。
視界はにじみ、文字が見えづらい。
それでも何が書かれているかは、はっきりと分かる。
すごく嬉しい。
でも申し訳ない。
きっと昨晩遅くに学校へ来て用意してくれたのだろう。
中には嫌々参加した人もいるはずだ。
「ありがとうございます。ごめんなさい」
だから私は教壇の上から頭を下げたまま、クラスメイトたちの顔を見ることができなかった。
すると隣に立った雄太くんがそっとささやいてくれたのだった。
「加奈。顔を上げて。みんなを見てごらん」
私は頭を下げたまま、ちらりと雄太くんを見る。
雄太くんは小さく微笑みかけてくれた。
「大丈夫だから。さあ」
雄太くんはずるい。
いつだって私に勇気を与えてくれる。
怯える内心とは裏腹に、ひとりでに顔が上がっていく。
そして私の顔が完全に上がった直後……。
「遠藤さん! ありがとう!!」
マリア先生の大きな声とともに、万来の拍手が巻き起こった。
「ありがとう!」
「私たちのこと忘れないでね!!」
「遠藤さん! さよなら!!」
鼓膜を激しく震わせる音と声。
再び滂沱として流れる涙。
私の涙が伝染したのか、遠山さんの笑顔が泣き顔に変わった。
「加奈ちゃあああん! うわあああ!!」
遠山さんだけじゃない。
女の子たちの多くが肩を抱き合って涙している。
あの舟木くんでさえ、鼻の頭を真っ赤にさせていた。
「みんな寂しい。でも笑顔で送ってやろうって。なのに春奈のやつ……。自分から泣きやがって! きたねえぞ! うわああっ!」
心と体が震える……。
何も考えられない……。
でも一つだけはっきり分かったことがあったの。
「私たちは加奈ちゃんを忘れないから! 加奈ちゃんも私たちのことを忘れないでね!」
それは、私はひとりぼっちなんかじゃなかった、ってこと――。
………
……
それから先はあんまり覚えていない。
記憶にあるのは、泣きじゃくったまま、遠山さんたちに抱きかかえられて終業式の会場である体育館に向かったこと。
それから終業式が終わった後に、みんなで黒板の前に立って記念撮影をしたことくらいだ。
スマホのアルバムにたくさんの写真が残っているから間違いない。
はっきりとした記憶はないけど、幸せな気分だけは確かに胸の中に刻まれたのだった。
………
……
ようやく少し落ち着いたのは、雄太くんと二人で校舎を出る時だった。
そこで私はずっと疑問に思っていたことを雄太くんにぶつけた。
「どうして私なんかのためにここまでしてくれたの?」
雄太くんはちょっとだけ口角を上げると首をすくめた。
「あれを見れば、理由なんて一つしかないだろ」
雄太くんがチラリと背を振り返ったので、私もつられるようにして振り返る。
すると教室のある二階の窓から遠山さんたちが懸命に手を振っているが目に入ってきた。
「バイバーイ! 加奈ちゃあああん!!」
「さよーならー!!」
とても自然な笑顔だ。
私は鼻の奥がツンとするのをこらえながら、立ち止まって手を振り返した。
雄太くんは足を止めずに前を進んでいく。そして低い声で私の心に直接声を響かせた。
「みんな加奈のことが好きなんだよ。それ以上の理由なんていらないと思う」
私は今まで生きてきた中でもっとも大きな声を振り絞った。
「ありがとう! さようならぁぁ!!」
最高のクラスメイトに囲まれた、とても幸せな高校生活。
ありがとう。ありがとう。
数え切れない無数の『ありがとう』を抱えながら、私は雄太くんとともに校門を後にしたのだった。
私は優しい世界が好きなんです。




