とても大事な人を自分が忘れてしまうこと。それが怖いんだよ
◇◇
クリスマスイブの後も、俺は加奈と二人で過ごす時間を大切にした。
そして部屋の片隅に置かれたリュックの中に思い出を入れていったんだ。
土曜のデートで行った映画の半券。
初詣の時に二人で引いたおみくじ。
初めて二人で入ったタピオカミルクティのお店のレシート。
遊園地で買ったお揃いのマグカップ。
バレンタインでチョコを包んでいた紙。
ホワイトデーの時に撮った初めてのプリクラ。
そして教室の片隅で交わしたメモ紙……。
他愛もない日常のワンシーンをほんの少しずつ切り取って思い出に変えていく。
そんなことを繰り返していくうちに、二人の関係もちょっとずつ変化していった。
自然と続くようになった会話。
理由なくつながるようになった手。
時々喧嘩もできるようになった。
そして、特別な日だけ交わす甘いキス。
つい1年前までは視線すら交わさなかった俺と加奈にとって、これらの変化はまさに『小さな奇跡』だ。
まるで夢の中にいるような心地だった。
でも分かれ道であるT字路で立ち止まるたびに、夢から現実へと引き戻される。そして寒さがやわらいだ頃になると、残酷な未来への予感が胸をキリキリと締め付けるようになってきたのだ。
加奈が日本を発つのは終業式の翌日。
それまであと2週間に迫っていた。
「加奈。手……」
「うん……」
いつものT字路に差し掛かったが、加奈はつないだ手を離そうとしなかった。
それは今日に限ったことではなく、近頃はここで立ち止まる時間が長くなっている。
うつむく彼女が言いたいこと、でも言ってはいけないこと、それはよく分かっているつもりだ。
なぜなら少しだけ汗がにじんだ加奈の手から、俺の心に直接伝わってくるから。
――お別れなんて嫌だよ。
でも今の俺たちにはどうすることもできない。
俺だって加奈と離れるのは嫌だ。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
だから、
「加奈。また明日な」
俺は悲しみごと突き放すしかなかった。
加奈はきゅっと唇を噛んで、コクリとうなずいた。
「じゃあな」
「……うん」
加奈に背を向けてゆっくりと歩き出す。
一歩、二歩と離れていっても背中に突き刺さる視線を感じていた。
振り返ったら余計に辛くなる。
それは分かってる。
分かっているけど……。
今日は耐えきれなかった。
ちらりと振り返った俺の目に飛び込んできたのは……。
大粒の涙をポロポロと落としながら、必死に嗚咽をこらえている加奈の姿だった――。
「加奈!!」
ひとりでに足が加奈の方へ向いていく。
そして俺は彼女をきつく抱き締めた。
彼女は必死に声を振り絞る。
「大丈夫。私は大丈夫だから……」
けなげに俺を心配させまいとしている姿が痛々しい。
それなのに俺は気の利いた言葉を知らない。
だから彼女が泣き止むまで側にいることしかできなかったんだ。
………
……
地元の駅に着く頃は、すっかり日がくれていた。
夜道をとぼとぼと歩いていく。
その間も頭を離れなかったのは、楽しい思い出ではなくて加奈の涙だった。
「どうしたらいいんだろう?」
頭を悩ませながら公園のそばを通り過ぎようとした時、ふいに横から声をかけられた。
「なに暗い顔してんのよ」
春奈だ。
公園の入り口に立っている。
「春奈? こんなところで何やってるんだ?」
「なにって。待ってたんでしょ」
「誰を?」
「ユウくんに決まってるでしょ! ほらっ! 缶コーヒーおごりなさいよね!」
「なんでだよ!」
「なんでも!!」
訳が分からないが、とにかくおごるしかなさそうだ。
俺は公園のそばにある自販機で二本の微糖の缶コーヒーを買うと、公園のベンチに座る春奈の元へ急いだのだった。
………
……
「んで、どうするのよ? 加奈ちゃんのこと」
あまりに直球な質問で、口に含んだコーヒーが吹き出しそうになる。
どうにかこらえた俺は、ちらりと春奈を見た後、空を見上げて答えた。
「どうしようもできないよ。離れ離れになるのは止められないんだから……」
「あんなにボロボロ泣いてた加奈ちゃんを見てもそう言えるんだから、たいしたもんだわ」
「なっ……!? おまえ! 見てたのか!?」
「帰り道のど真ん中で泣いてたら私じゃなくても誰の目にも止まるでしょうに……」
正論にぐうの音もでない。
春奈は小さなため息をもらした。
「はぁ……。やっぱりユウくんは昔から変わらないよね」
「どういうことだよ?」
「なんにも分かってないんだから」
俺の問いに言葉を切った加奈は、ベンチから立ち上がって一歩だけ前に出た。
「離れることが怖いんじゃないんだよ」
とても意外な言葉に思考がついていかない。
一方の春奈は一度だけ大きく息を吸って吐き、悲しげな表情に変えた。
「春奈?」
俺の心配などよそに、彼女は背を向けた。
「とても大事な人を自分が忘れてしまうこと。とても大事な人から忘れられちゃうこと。それが怖いんだよ」
ズンと胸を打つ言葉だ。
言葉を失ってしまった俺に対し、春奈はしみじみとした口調で続けた。
「いつも隣にいると勘違いしちゃうんだよ。ずっと離れないものなんだって。だからその人のことがどれだけ大切か忘れちゃうんだ。そして気づいた時には、その人はもう届かないところにいる……。こんなに悲しいことはないよ」
彼女の声が鼓膜を震わせたとたんに胸がキリキリと痛む。
同時に春奈に対して、声をかけてあげなくちゃいけない気がしていた。
でもなんて声をかけたらいいんだろう?
考える間もなく浮かんできたのはたった一つの言葉だった。
――春奈、ごめんな。
なぜ俺は春奈に謝ろうとしているんだ?
自分でも分からない。
だが春奈は口を開かせる隙を与えなかった。
俺に向き直った彼女は、春の陽射しのような笑顔で締めくくったのだった。
「加奈ちゃんにユウくんのことを忘れさせなければいいの」
「俺のことを忘れさせない……」
ぽかんと口を開ける俺に対し、春奈は再び背を向けた。
そのまま跳ねるような足取りで公園を後にしようとする。
「おい! 一人で帰る気か!?」
俺は慌てて彼女の横に並んだ。
すると彼女がボソリとつぶやいたのが聞こえてきたのだ。
「ユウくんには私みたいに後悔して欲しくないから……」
「えっ……?」
思わず立ち止まってしまった俺の前に、春奈がぴょんと出る。
そしてスカートをふわりと浮かせながら、くるりと振り返った。
「頑張れ! ユウくん! 負けたら承知しないぞ!!」
吹っ切れたような爽やかな笑顔に、思わずドキッとして固まってしまう。
そんな俺を置いてけぼりにして春奈は駆け出した。
「だから待てって!」
俺は彼女の背中を追いかけ始めた。
しかしなかなか追いつけない。
「あはは! 待たないもーん!」
その声があまりにも明るくて俺は気づかなかったんだ。
春奈の瞳から溢れ出した涙が、夜空の向こうへ消えていくのを――。
………
……
――加奈ちゃんにユウくんのことを忘れさせなければいいの。
俺は春奈のアドバイスに従って、とあることを始めた。
『おやすみ、加奈』
『おはよう、加奈』
それは毎日欠かさずにKINEで挨拶をかわすこと。
これまでの俺たちは学校で毎日顔を合わせることができたせいか、必要な時にしかメッセージをやり取りしてこなかった。
だから始めは加奈も俺も戸惑ったけど、徐々に自然とメッセージを交わせるようになっていったんだ。
『おやすみ、加奈』
『おやすみ、雄太くん』
『また明日な』
『うん。また明日』
すると加奈の悲しみが少しだけ和らいだようだ。
少なくとも涙ではなく、ぎこちない笑顔で見送ってくれるようになった。
そうしてついに終業式の日を迎えたのだった。
春奈ちゃん。ごめんなさい。
全員をハッピーエンドにはできない……。




