あの時みたいに。手、つなぐ?
◇◇
土曜日の朝。
深い眠りの最中にスマホが激しく震えた。
「なんだよ……。こんな時間に……」
ねむけまなこをこすりながらメガネをかける。
スマホの画面を覗くと、『遠山春奈』の文字が……。
しかも『メッセージ』ではなく『通話』ではないか。
ウトウトしながら通話ボタンをタップした俺の耳に、春奈の快活な声が突き刺さった。
「おはよう! ユウくん! 今着いたから玄関まで迎えにきて!」
「は? 何しにきたんだよ?」
「何しにって……。あきれた。カオちゃんの応援でしょ! 応援!!」
「おまえ……」
今何時だと思ってるんだよ!
朝6時だぞ! 朝6時!!
平日に学校行くより早起きして、妹の部活の応援に行くって……。
どんだけ気合い入った兄貴なんだよ!!
……なんて言おうものなら数倍にして返ってくるのは目に見えている。
俺はただ大きなため息をついた後、
「今行くから」
と言って電話を切った。
部屋を出て、2階から1階へ向かう。
どうやら香織も両親もまだ寝ているらしく、家の中は静寂に包まれている。
ふらつく足取りで玄関までたどり着いた俺はドアをゆっくりと開けた。
するとドアの向こう側に腰に手を当てて、ニコニコしている春奈の姿が目に飛び込んできたのだった。
「おじゃましまーす!!」
「おいおい! だから待てって。まだ早いだろ。もう少ししたら迎えにこいよ」
「何言ってるの! 早起きは三文の得って昔から言うじゃない!」
いや、この場合は絶対に違うと思うぞ。
と言わせる暇もなく、春奈はズカズカと家に入り込むと、勝手に俺の部屋を目指していく。
「ちょっと待て! 俺の部屋汚ないから!」
「知ってるわよ、それくらい。だから何?」
「おまえにはデリカシーってものがないのか!?」
「あったらとっくに彼氏の一人でもできてますー! って何を言わせるのよ! バカ!!」
などとくだらないやり取りをしているうちに、春奈と俺は部屋の中に入った。
「さあ、早く支度してよ!」
「ちょっと待てって!」
「待てません! まずはパジャマから着替えて!」
「のわっ! おまえ! 人のズボンを勝手に下ろすな!」
「何を今さら恥ずかしがってるのよ! ほらっ!」
そんなこんなで朝の7時には支度を終えた俺は、なんと選手である香織よりも先に家から引きずり出されたのだった……。
………
……
「んで、会場の体育館に着いたものの、早すぎてまだ中に入れないと」
「そのようね……」
「そのようね、じゃないだろ! どうするんだよ! まだ試合が始まるまで3時間はあるんだぞ!」
「だって遅刻したら大変でしょ! それに早起きしちゃったんだからしょうがないじゃない!」
現在の時刻は午前8時半。
体育館が開くのは午前9時で、試合開始予定時刻は午前11時だ。
しかも体育館の周囲はガランとしており、時間を潰せそうな店はない。
「ったく……」
「そんなに怒んなくてもいいでしょ」
ばつが悪そうにそっぽを向いて口を尖らせている春奈。
そんな彼女を見て、思わず笑みがこぼれた。
「なにがおかしいのよ?」
「いや、春奈は変わらないなって」
「どういうこと?」
「春奈ってさ。遠足や修学旅行とか、楽しいことがある前日の夜は、まったく寝られないんだよな。そんな時はいつも俺を早朝に起こしにくるんだ」
「そ、そんなことないもん! たまたまよ! たまたま早く起きちゃったの!」
「ウソ言って強がる時に鼻の穴が広がるのも変わってないぞ」
「なっ! そんなことないもん!」
……ということは、今日俺と香織の応援に行くのがよほど楽しみだったということか。
だがそれは『俺と応援に行くこと』ではなく『香織の試合を応援に行くこと』が楽しみだったのだろう。
そんな不毛なことを自分に言い聞かせた後、俺は体育館から離れるように歩き出した。
「どこへ行くの?」
「散歩」
「待って! 私も行く!」
背後に春奈の軽い足音が近づいてくる。
俺は振り返らずに前を進む。
しかし意識は前方ではなく後方に向けられていた。
春奈はちゃんとついてきてるかな。
昔からよくつまずいて転んでたから、大丈夫かな。
高校に入ってから春奈は、クラスの人気者で、勉強も運動もこなせる完璧な女子だけど、俺の中ではずっと変わってなかった。
猪突猛進で、すぐ早とちりして、喜怒哀楽がはっきりしていて……よく笑う。
そしてどんな時でもニコニコしながら俺の背中をついてくる。
――ユウくん! 待って!
きっと俺が恋していたのは、そんな彼女だ。
「なんで今さらそんなことを考えてるんだか……」
春奈に聞こえないように、風で消える声でつぶやいた。
……と、その時。
「ん?」
背後から足音が消えているのに気づいたのだ。
俺はパッと振り返る。
「春奈?」
春奈の姿がない。
キョロキョロと辺りを見回しても、彼女はどこにもいなかった。
「春奈!」
大きな声がむなしくこだますと、悪い思い出が脳裏をよぎる。
――ユウくん! 怖かったよぉ! うええええん!!
それは小学3年の頃。夏祭りへ二人で出かけた時のだった。
あの時も俺の背中についてきていた春奈。
しかしいつの間にかはぐれてしまった。
俺は人混みをかきわけながら、懸命に彼女を探したさ。それこそ汗だくになって。
そうして祭りが終わるころになって、神社の隅で彼女をようやく見つけたのだ。
――どうしていなくなっちゃったんだよ!
――だってカブトムシがいたんだもん……。うええええん!
あの時は帰るのが遅くなり、母さんから散々怒られて、大泣きしたっけ。
でも顔を真っ赤にして怒鳴る母さんよりも、春奈がいなくなってしまった時の不安の方が怖くて、なかなか泣き止まなかったんだ。
「春奈……。どこへ行っちゃったんだよ……」
あの時と同じ不安が声を曇らせる。
でも彼女はもう高校生なんだし、あの時とは状況が全く違うじゃないか。
心配するようなことじゃないだろ。
理屈を並べて落ち着かせようとするが、募る不安は止められない。
なぜだ?
なぜ春奈と離れただけで、そんなに狼狽しているんだ?
そんな風に変な方向に考えが向き始めたその時だった。
突如として首筋に冷たい何かが当てられたのだ。
――ピタッ。
「ひっ!!」
あまりの驚きに、思わず声が裏返った。
「あははは! その反応、おもしろーい! あははは!!」
笑い声のした方へ目を向けると、そこには缶ジュースを両手に持った春奈の姿があった。
「春奈! おまえ、どこ行ってたんだよ!」
「自販機見つけたから、ジュース買ってたの。そんなに怒ることじゃないでしょ」
「だって……」
そう言いかけた俺に、春奈が片手のジュースを放り投げる。
綺麗な放物線を描いた缶ジュースを、俺は慌ててキャッチした。
「それ、今日のおわびね!」
にかっと笑顔を見せた春奈は、プシュッと栓を開けた後、ぐびっと喉を鳴らしてジュースを飲んだ。
「ぷっはあああ! やっぱり夏はポカリに限るね! 最高だよ!」
なんだかうまくはぐらかされたような気がして面白くない。
しかし喉の渇きには勝てず、もらったポカリを一口含む。
キンキンに冷えた液体が喉を通ったとたんに、心に残ったモヤモヤが吹き飛んだ。
「美味しい?」
顔を覗き込んできた春奈に対して、俺は顔を横にそらした。
「うん……。美味しいよ……。ありがとな」
「あはは! よかった!」
彼女は何事もなかったかのように俺の横に並んできた。
人の心配も知らないで……。
そうため息をつこうとしたその瞬間――。
「あの時みたいに。手、つなぐ?」
春奈の透き通った声が鼓膜を震わせた瞬間に、俺は固まってしまった。
同時にかつての記憶が鮮明によみがえってきたのだ。
――またはぐれたらイヤだから。
――ユウくん?
――手、つなぐぞ。
――うん!
あの時の柔らかかった春奈の手の感覚まで思い出して、顔がカッと熱くなる。
見れば春奈の頬も桃色に染まっていた。
そこで当然のようにわく疑問。
なんで春奈は手をつなごうなんて言い出したんだ?
春奈もあの夏祭りのことを覚えていて、わざとはぐれたのか?
にわかに混乱した俺を見透かすように、春奈はピョンと前に出た。
そして俺の方をくるっと振り返ると、いつも通りの笑顔を作ったのだった。
「あはは! もしかして本気にしちゃった?」
「はあ? どういう意味だよ」
「冗談に決まってるでしょ! そんなことしたら加奈ちゃんに怒られちゃうもん!」
自然と眉間にしわが寄っていくのが、自分でも分かる。
春奈は俺の怒りをかわすように、再び背を向けた。
「さてと! そろそろ体育館が開く時間だね!」
そう言い終えた彼女は体育館に向かって駆け出した。
弾むような足取りで前を行く彼女の背中は、昔と何ら変わっていない。
そのことに胸をなで下ろしている自分が、不思議でならなかったんだ。