視界不良
まずい、と判断すればピーノの動きは素早かった。
状況を理解しかねている様子のハナをあっという間に抱きかかえ、話しかけてきた男から遠ざかるように真っ直ぐ後方へ、人だかりの頭上をいとも簡単に跳び越えていく。もちろん「門」を開いていればこその芸当だ。
これもハナの舞踏に続く見せ物の一環だとでも勘違いしたのだろうか、またも歓声が沸き上がる。
結局上策ではない手段を取ってしまったが、この際四の五の言ってはいられないだろう。とにかく一刻も早くこの場から離れる必要がある。逃げの一手だ。
「何してんのよ、降ろして! 降ーろーしーてー!」
腕の中でハナがじたばたと暴れているのを無視し、振り返って人々の隙間から男の動向を確認する。どうやら追ってくる様子はなさそうだ。
他にも臨時の観衆に紛れ込んで何人か仲間がいるのかもしれないが、誰にも目立った動きは見られない。殺気も放たれていなかった。
一方でハナの声の調子は懇願の色を帯びている。
「恥ずかしいー! お願いだから降ろしてえー!」
「舌を噛むといけないから、しばらく我慢して黙ってて。いいね」
ぴしゃりと言い放ち、そのまま全力で駆けだした。
◇
追っ手はなさそうだといっても、警戒するに越したことはない。
攪乱を意図してピーノは何度も角を折れ曲がり、追跡しづらい経路を使ってスタウフェン商会へと戻ってきた。もっとも、相手がすでに商館で待ち構えている可能性だってある。素性はばれているのだ。
慎重な足取りで商館の入口へ近づいていくと、ちょうど外へ出てきたディーデリックの姿が見えた。軽く伸びをし、それからしきりに肩を回して揉んでいる。事務仕事続きで疲れているのだろうか。
などと思っている場合ではない。
「ディー!」
ピーノからの呼びかけにディーもすぐ反応する。
「おお、やけに早かったな」
「それよりさ、妙なやつらがハナを捜しにここへ来ていない?」
「ん? いや、こっちはいたって平和なもんだ。ところで──」
ディーがピーノに抱きかかえられてぴくりとも動かないハナを指差した。固く目を瞑り、運ばれていく荷物に徹したかのような姿だ。
「大丈夫なのか? 怪我してはいないだろうな」
彼がハナの顔を覗きこもうとすると、その目はようやく開かれる。
そして無言のままピーノへ頭突きを食らわせてきた。
流れで腕の中から飛び出したハナは「バカ野郎!」と捨て台詞を吐いて商館内へ入っていってしまった。
彼女の後姿を見送ったディーが顎に手をやり、ピーノに問う。
「いったい何があった。とりあえず色気のある話でないことだけは理解できるが」
訊かれるまでもなく、まずはディーの協力が必要だ。先ほどの出来事をかいつまんで説明し、ピーノは今後の動き方についての指示を仰ぐ。
「どうしよう、ぼくたちどこかに隠れていた方がいいかな」
目線を落とした姿勢で少し考えていたディーだったが、顔を上げて口にした言葉は「その必要はないだろう」であった。
「まず疑うべき線はゴルヴィタ軍だ。幸い、ここには強固な繋がりがある」
傭兵時代の部下たちが上層部に多いんでね、と事もなげに言う。
「俺は今からそちらを直接当たってみるさ。しょうもないことを考えている輩がいるようならその上から手を回す。うちの連中にも周知しておくし、おまえとハナはいつも通りに過ごしてくれればいい。聞いた話の印象では強硬な手段を取ってくるつもりはなさそうだからな。現段階では、だが」
「でも」
さらに言い募ろうとするピーノを制し、赤毛の髪を乱暴に撫で回しながらディーが笑いかけてくる。
「おまえほど強いやつなんてそうそういないんだ。ハナを心配しているのはわかるが、それでもピーノ、おまえにはいざという時に守ってやれる力がある」
だろ、という彼の言葉にピーノも小さく頷いた。
「むしろ俺が不安に感じているのは、酔っ払いどもにくっついているエリオの方だぜ。あっちの組は動きが読めないからな……。ひとまず誰か迎えの者を行かせるよ。おとなしく戻ってくれりゃあいいが」
ため息混じりにディーが言う。このあたり、長年イザークの盟友として時には尻拭いもしてきたであろう年月の重みを感じさせる。
◇
結論から言えば、ゴルヴィタ軍はまったくの無関係であった。あまりの収穫のなさにディーも首を捻りながら帰ってきたほどだ。
ハナへ詰め寄った例の男はそれっきりで、商館にもやってきていない。
だが取り越し苦労だったとするには男の語った言葉は具体的過ぎた。ピーノとしてはまだ警戒が必要だと感じていた。
ディーも同意見であり、「気を緩めるのはまだ早い」と釘を刺す。
「どこの息がかかった者なのか、はっきりと見定めないことにはな。そこを突き止めて落着するまではこの街に寄りつかない方が賢明だろう」
それから彼は傍らに寝転がっているイザークの脇腹を蹴り上げた。
「聞いているのか、おい!」
「うう……」
空しく返ってきたのは呻き声だけである。彼がここまで酔うのは非常に珍しい。いったいどれほど飲めばこうなるのか。
しかも今回酔っ払っているのはイザークだけでなくエリオもなのだ。どうやらイザークとリーアムが調子に乗って酒を飲ませてしまったらしい。
酔漢というのも困ったものである。
何度も胃の中にあったものを戻した後、応接室の片隅で死んだように横たわるエリオの口元へ、かいがいしくハナが水を差しだしている。
体躯に恵まれた二人を〈酒豪列伝〉から運んでくるのは、想像以上の重労働だったとディーの部下たちも嘆いていた。
「やっぱり次はぼくもついていこう……」
酔いどれどもの暴走を止める役目を果たさなければ、と心に誓う。
けれども結局、この日を最後にピーノはゴルヴィタの街を訪れていない。




