ハナ、踊る
ヌザミ湖畔にあるイザークの別荘と、ゴルヴィタに構えているスタウフェン商会の商館とを折に触れて行き来する新しい日々が始まった。
いつぞやの〈酒豪列伝〉での宴にて元修道士のリーアムと知り合って以来、エリオは彼のことを気に入ってしきりに話を聞きたがるようになったのだ。
この日もピーノたちはゴルヴィタへとやってきていた。
ただし今回、リーアムのところへ向かったのはエリオとイザークだけであり、居残り組のピーノとハナは特にあてもなく大通りをぶらついている。
「あの人たち、まだ昼間だけどどうせ酒盛りしちゃうんだろうね」
つまらなさそうにハナが言った。
もうすっかりゴルヴィタの街に慣れてしまったハナは頭巾を被っておらず、美しい黒髪と褐色の肌を隠すことなく颯爽と道を行く。
最初に全員揃って顔を合わせた夜から数えて、エリオがリーアムと会うのは今日で五度目である。
二度目はエリオ、ピーノ、ハナと三人一緒だったのだが、「セス教にはどうしても馴染めない」と言いだしたハナが三度目のときに外れてしまう。
自然そのものを信仰していた〈シヤマの民〉にとって、人が自ら拵えた神になど興味が持てないということなのかもしれない。いくらリーアムがセスを「神ではなく人間そのもの」と主張していようとも。
そんな経緯もあって四度目からはピーノも、留守番となるハナを気遣って残ることにしたのだ。元々はエリオがルカとの一件をどうにか受け入れられるようになれば、との目論見だったのだから、ピーノとしても現在の状況は悪くなかった。
その証拠に、エリオが以前のような憂いに満ちた表情を見せる回数は明らかに減っている。いい傾向だ。
「エリオのやつ、このままセス教にはまっていったりして。だったらやだな」
つっけんどんな言い方だが、心配そうな響きを隠せていないところがとてもハナらしい。
彼女を安心させるように微笑みながらピーノが「大丈夫だよ」と答えた。
「あのリーアムって人は、赤裸々に自分の弱さを語ることのできる大人だった。ハナだって信頼していい相手なのは認めてるでしょ? エリオが惹かれているのは彼の人間味みたいなものにであって、決してセス教自体にではないから」
そこは断言していい、と力強く言い切ってみせる。
ハナはピーノを横目で眺め、それから視線を前へと戻してため息をついた。
「……ふーん。やっぱりピーノはよくわかってるよね、あいつのこと」
「そりゃまあ、ここまでずっと二人一緒にやってきたわけだし」
どこか奥歯に物が挟まったような物言いをするハナの意図が読めず、ピーノとしても当たり障りのない返事をするしかなかった。
それでもまだハナには何か伝えたいことがあるらしい。
「あのねピーノ、ちょっと聞いてほしい話があるんだ」
「もちろん。ぼくでよければいくらでも」
どうぞ、と促された彼女が勢い込んで切りだそうとしたのだが。
「あ、あた、あた、えり、えり」
初っ端から噛んでしまってまったく文章が繋がらない。
「落ち着いてハナ、ゆっくりでいいから」
「す、す、す、あーもう! 根性無し! あたしのアホ!」
ここから明らかにハナの様子がおかしくなっていく。
いきなり自らの両頬を叩き、握り拳を作り、深呼吸を何度も繰り返す。睨みつけるような目とともにピーノへと振り向いては、すぐにまた逸らしてしまう。
いったい何が始まるのだろう、と半ば怯えていたピーノだが、奇行に終止符が打たれたのは「好きなの!」というハナ自身の叫びによってであった。
荒くなっている呼吸に合わせて肩を上下させながら、少しだけ音量を抑えた声で再び彼女が言う。
「あたし、エリオのことが好き。本当に本当に、大好きなの!」
ピーノにとってとんでもなく突然な告白だ。
頭が状況を受け入れるのにしばらくの時間を要したが、それでも何も口にせず彼女を黙って放置していいわけがない。
必死の思いでどうにか言葉を絞りだす。
「えと、その、好きって……」
「好きは好きでしかないじゃない、バカ! 何べんも言わせないで」
恥ずかしすぎて死にそう、とハナは両手で自分の顔を覆ってしまう。
もうピーノにはお手上げだった。
エリオがいてくれたなら、と内心で親友の登場を切に願うも、もしそうなったらより一層場が混沌としてしまうことに遅れて気づいた。やはりお手上げだ。
固まっているだけだったピーノをよそに、どうにかハナも自力で落ち着きを取り戻していったらしい。
いつにないしおらしさで彼女が頭を下げる。
「ごめんね、突然。こんなことを打ち明けられるの、ピーノしかいないのよ……」
ピーノとしても頼られるのはありがたいのだが、しかしハナがその相手を間違ってしまっているとも思う。たぶん、力になれない。
「仲がいいなあとは感じていたんだけどさ。恋とか愛とか、これってそういう方面の話なんだよね……。ぼく、そっちのことにはとても疎くて、仲間たちからも『恋を知らないお子様』って扱いだったんだ」
「それでもいいの。自分の気持ちを知ってくれている人がいるだけで、随分と心が軽くなったように思えるから」
ぐいっとハナが顔を近づけてきた。
あまりに綺麗すぎて眩暈がしそうだ。
けれども次の瞬間、彼女は天を仰いで咆哮した。おそらく道行くすべての人たちが振り向いたことだろう。
「あー、もう! だめ! 体が熱くなって燃えてしまいそう!」
見立て違いもいいところだ。ハナはまったく落ち着いてなどいなかった。
いきなり往来の真ん中へと駆けだし、石畳の上で軽やかに跳ねだしていく。
ぴんと伸ばされた指先も美しく、均整のとれた肢体が躍動する。
呆けたように眺めているピーノの視線の先で、ハナは確かに〈シヤマの民〉最後の踊り手として存分に己の才を披露していた。
もちろん魔術の行使を示す光点はさすがに浮かんでいない。
それでもピーノにしてみればハナこそが光そのものだ。眩く輝き、目を奪う。
気づけば周囲には遠巻きにではあるが人だかりができていた。誰もがハナの舞踏に圧倒され、声もたてず固唾を飲んで見守っている。人目を引くのはあまり好ましい事態とは言えないが、彼女の邪魔をするつもりにもなれない。
何よりピーノ自身が最後まで見つめていたかったのだ。
激しかった彼女の動きが次第に緩やかになっていき、そしてぴたりと止まる。
終わりを迎えたその瞬間に大歓声が起こった。
どれほど集中していたのだろうか、滴る汗を拭いながらもハナは目を丸くして驚いていた。観衆の存在は意識の外だったのだ。
鳴り止まぬ歓声と拍手と口笛の中、一人の男がハナへと歩み寄ってくる。
一見するとただの町人風なのだが、ピーノの目はごまかせなかった。足の運びは一般の人間のそれではない。
だが衆人環視のこの状況下で、いきなりハナとともに逃げだすのも上策とは思えなかった。どのようにでも対応できる距離を保ち、成り行きを見守る。
男は如才なく笑みを浮かべて拍手をし、大きく両腕を広げた。
「惚れ惚れするほどお見事でした、褐色の娘さん。やはり巷の噂通り、あなたが〈シヤマの民〉の血を引く方ですね。そしてあの高名なイザーク・デ・フレイ様とも昵懇でいらっしゃる」
しばしお時間をいただけますか、と丁寧な口調で彼は言った。




