酔いどれリーアム
入口の扉は大人同士だとすれ違えないほどに小さかったが、いったん中へ入ってみると予想外に広い空間が広がっていた。階段を上がれば二階席もある。
まだ日も落ち切っていないというのに、所狭しと並んだ卓はすでに大勢の客で賑わいを見せていた。店名に掲げた〈酒豪列伝〉に違わず、どの客も浴びるように酒を飲んでいるのだろうか、とピーノは思う。
「席はとってある。二階だ」
そう告げたイザークが奥の階段へずんずんと進んでいく。
ピーノたちも遅れないように後ろからついていくが、驚いたのは多くの卓からイザークへ声がかけられることだ。
「久しぶりだね、イザークさん!」
「もう商会を引退したんだって?」
「おっとその子たち、あんたの隠し子かい?」
「おうイザーク、また飲み比べをやろうや!」
その都度、律儀に返事をして笑みを浮かべる彼の姿はやけに新鮮だった。
二階へ上がり、ぐるりと回り込むように進んでいけば、仕切りの壁を設けられている席へとやってきた。
「相変わらずの人気だなァ。ええ、おい」
そこには先客がいた。
ゆらりと立ち上がった男、彼こそがリーアム・ファロンに違いなかった。イザークとも戦ったことのある元傭兵にして、セス教より破門された元修道士。
体格はエリオによく似て長身痩躯、元々黒色だったはずの僧服はすっかり色褪せてしまっている。眼光鋭く、髪を綺麗に剃り上げているのもあって相当に強烈な風貌だ。幼い子供などは目にしただけで泣きだしてしまうんじゃないか、とついピーノは失礼なことを考えてしまった。
対照的に黒々とした長髪を後ろで束ねたイザークが右手を差し出す。
「よう、くたばり損ない。そろそろ肝臓がいかれたかと思ってたぜ」
「否定はせんが、それはおまえも同じよな。あと禿げろ」
罵り合うような挨拶とともに、二人はがっちりと握手を交わした。
「仲……いいの?」
疑わしそうにハナが言う。
「うーん、ぼくにはよさそうに見えるよ。エリオとハナがいつもじゃれ合ってる感じに近いんじゃない?」
素直にピーノが答えると、即座にハナによる肘打ちが脇腹へと飛んできた。
「ピーノ、言葉選びには細心の注意を払うことね」
照れているだけなのはさすがにわかっているが、それでも痛いものは痛い。
つい呻き声を上げてしまったピーノへ視線が集まってしまう。
「突っ立ったままで何してる、さあ座れ座れ」
イザークが椅子の背を軽く叩きながら三人を促してきた。
「ここはゴルヴィタでも有名な酒場だが、メシだって旨い。きっとおまえたちにも満足してもらえるはずだ」
◇
料理や飲み物がずらりと並び、宴は和やかに始まった。
ピーノたち三人がそれぞれ簡単な自己紹介をすませると、一転して穏やかな眼差しとなったリーアムは言う。
「簡単にではありますが、イザークから文にて事情は聞き及んでおります。〈シヤマの民〉の生き残りであるハナさんに、彼女を守って帝国から逃げだしてきたエリオくんとピーノくん。君たちを襲ったのは筆舌に尽くしがたい、辛く理不尽な出来事であったでしょう。それでもこうして生き延び、出会いの場を持てたことへ、それがしは感謝の祈りをセス様へ捧げねばなりますまい」
何かにつけて祈るのはやはり元であっても修道士らしいな、などと思いつつピーノは彼の所作を眺めていた。だがリーアムがとったその後の行動は、ピーノの知る祈りとは似ても似つかぬものだったのだ。
卓上に置かれていた酒を三杯、「ご照覧あれ」と声高に宣言するや立て続けに飲み干してしまう。
呆気にとられていたピーノたちへ、イザークが頭を掻きながら補足する。
「まあ、こういうやつでな。リーアムから酒を引いたら後には何も残らんよ」
だがこの言い分にリーアムは反発した。
「イザークよ、相変わらず貴様は不埒だな。かつてセス様は大層な酒飲みであられたのだ。それがしの篤い信仰心を証すには、これしきの量では到底足りぬ」
「な。こんな酔いどれ修道士、俺がセス教上層部でもたぶん破門するぞ」
負けじと酒を喉へ流し込み、イザークが言い放つ。
骨付きの肉にかぶりつきながらエリオも話に入っていく。
「おれとピーノはちょっとだけセス教の教えについてかじったことがあるんだけどさ、セスが酒飲みだったなんて話は一度も出てこなかったぜ」
「そうだねえ。人間離れしたような聖人で、三度死んで蘇ったことしか」
エリオが敬称をつけずにセスを呼び捨てにしたことなど意にも介さず、リーアムはピーノの相槌に「そこだよ」と食いついてきた。
「まさしく今のセス教の問題はそこなんだよ、ピーノくん。最大派閥であるグエルギウス派は徹底的にセス様を神格化し、人ならざる者へと変じてしまった。それがしは密かに残されていたグエルギウス登場以前の記録を随分と調べてみたのだが、どの伝承にも一貫していたのはあくまで人間としてのセス様の姿であったよ」
セス教にまったく興味がなさそうなハナは、いちばん端に座って黙々と料理を口に運んでいたが、エリオとピーノは静かにリーアムの次の言葉を待っていた。
「セス様はね、よく働きよく笑い、誰とでも親しく交じり、時にはほらも吹く陽気な大酒飲みであったそうだ。どこにでもいそうな、豪快にして愉快な一人の人間だよ。誤解を恐れず言えばそんな普通のお人が、理不尽に苦しむ他の人々を万難を排して導いていったことへ、それがしはいつだって強く心打たれるのだ」
ここでピーノは気になったことを訊ねてみる。
「じゃあ、セス様が死んで蘇った言い伝えは嘘だと?」
挑発的に聞こえたかもしれないが、リーアムは穏やかな態度を崩さず「そこはわからん」と答えてくれた。
「けれどもそれがしにとってはさほど重要ではないのだよ。もし本当に今もご存命であれば、死ぬ前に一度お会いしてみたいものだが」
喜びの余りこっちが昇天してしまいそうで怖い、と朗らかに笑う。
つられてピーノも微笑んでしまうが、隣ではエリオが真剣な表情をしていた。
「死んで蘇る、か」
なぜだかこの呟きがやけにピーノの耳に残った。
◇
イザークもリーアムもとにかく滅法酒に強い。一時は〈酒豪列伝〉に置かれている酒をすべて飲み干すかとさえ思われたが、その勢いもようやく落ちてきた。
そして大人というのは酒を飲めば飲むほど、素面では話せないことも口に出してしまいやすくなってしまうものらしい。
元セス教修道士のリーアムとて例外ではなかった。
きっかけはハナから「どうしてセス教の修道士になろうと思ったの?」という質問が投げかけられたことだ。
周囲の喧騒をよそに、ピーノたちの卓だけは静けさを増す。
「傭兵から修道士って、転職にしても極端な気がするけれど」
重ねて問うハナへ、リーアムは「そうでもない」と首を横に振った。
「その二つはね、隣り合わせみたいなものなんだよハナさん。もっともそれがしだって、理解できたのは取り返しのつかない経験をしたからでね」
事情を知っているはずのイザークは無言のまま、腕組みをして顔だけをわずかにリーアムへと傾けていた。
ピーノとエリオも彼を見つめ、続きが語られるのを待った。
「未来ある若者たちを前にして、いい年をした男が昔の自分語りというのもえらく冴えないものだが」
そんな前置きをしてからリーアムは話し始める。
「かつてはそれがしにも傭兵団を率いて戦場で暴れていた時分があった。荒くれ者揃いの団で、まとめるのも一苦労でね。そんな頼りない団長を右腕としていつも全力で支えてくれたのが、一緒に田舎を飛び出してきた親友だ。イザークにおけるディーと言えば伝わるだろうか」
それはとてもわかりやすい例えだ、とピーノも頷く。
「だが月日が流れていく中で、二人の関係は絶えず変化していたのだ。情けないことにそれがしにはまったく気づけなかったよ。決定的な裏切りを受けるまで」
視線を宙に彷徨わせながらリーアムは言葉を探していた。
「今ならあいつを許せたかもしれぬ。惚れた女に唆され、団長の座を奪おうとした程度の出来事なんざ、世の中にゃ掃いて捨てるほどあるものだ。だが当時のそれがしはとてもじゃないが、そんな度量なぞ露ほども持ち合わせていなかった。すっかり怒りに飲み込まれてしまい、荒れ狂ったまま自らの手で女ともども始末をつけて終わりとしたのよ」
斬られる寸前のあいつの顔は、というリーアムの声が低く響く。
「故郷で悪戯三昧の日々を送り、所狭しと駆け回っていた頃と同じだった。何もかもが変わっていったはずなのに、おかしな話よな」
だが緊迫しているはずの場にあって、どうにも気の抜けるような寝息らしき音が聞こえてきた。
目を瞑っている人間はただ一人、ハナだけだ。
隣に座るピーノが彼女の顔を覗きこんで確認する。
「やっぱり寝てるよ……」
「ハナめ、自由だな……」
質問した本人の居眠りとあってさすがにイザークも「すまん」と頭を下げたが、リーアムに気にした様子はない。
「いやいや。初対面の相手に無防備な姿をさらしているのは、それだけ安心しているとも言えるのでね。これまで彼女が気を張ってきたことを思えば、むしろその信頼感をありがたく頂戴しておきたい」
どこまでもできた人物である。
そんなリーアムが居住まいを正して言った。
「エリオくんにピーノくん、幸運なことに君たちにはイザークとディーのような素晴らしいお手本が身近にいる。だがそれがしで何か役に立てるのであればいつでも話をしよう。歓迎するとも」
「どうせ酒場で管を巻いているだけだし、暇だもんな」
予期せず褒められて照れてしまったのか、イザークが混ぜっ返す。
「黙れイザーク。そして禿げろ」
重々しくリーアムも応戦する。
こうして酒場での夜は賑やかに更けていった。




