ゴルヴィタの街を歩けば
「明日の朝、ゴルヴィタへ向けて出発するぞ。準備しておけ」
そうイザークが言いだしたのは、一週間ほど食卓を彩っていた羊肉の燻製の最後の欠片がエリオの口に放り込まれた夜のことだった。
当然、いきなりの通告へ異議が申し立てられてしまう。
「何でそういうのを今頃言うんだよ。びっくりしてせっかくの肉を噛みもせず飲み込んじまっただろうが」
「前もって伝えてくれるくらい、子供でもできそうなんだけど」
ぶつぶつと文句を口にしているエリオとハナを横目に眺めながら、ピーノは一人無言のまま食卓の後片付けを始める。
イザークも特段二人をなだめたりせず、「ちゃんと睡眠をとっておけよ」と念押ししてきただけだ。説明すらない。
けれどもピーノにはイザークの意図がつかめていた。
彼の言う「エリオに会わせてみたい男」との都合がついたのだろう。急であってもすぐに出立してその場を設けようとしてくれていることへ、心の中だけで密かに感謝の気持ちを捧げておく。
◇
ヌザミ湖畔からゴルヴィタまでは、馬を使えばさほどかからない。のんびり走ってもせいぜい丸二日で到着する。
目算通り、イザークに連れられたピーノたちも翌日の夕方にはゴルヴィタの市街地をぶらぶらと歩いていた。夕食の場所へと向かっているのだ。
長い袖に頭巾まで被って隠していても、やはりハナの褐色の肌は大きな街のゴルヴィタでも珍しいらしく、通りすがりの何人かは無遠慮な視線を浴びせてくる。その度にエリオが睨みつけて威嚇し、追い払っていた。
ただその程度ですむなら許容範囲内ではある。ウルス帝国においてはピーノたち三人も凶悪な逃亡犯だが、敵対するレイランド王国の勢力圏にあるゴルヴィタなら密告される心配もない。大手を振って過ごせるというものだ。
加えてイザーク曰く、スタウフェン商会はこの地に本拠を構えるにあたって「ゴルヴィタ政府には相当の金を積んでいる」そうで、よほど街の治安を乱したりしないかぎりは自由に振舞えるらしい。
レイランド王国では存在を絶対に許されないタリヤナ教徒も、スタウフェン商会の名前の下でならゴルヴィタでは生きていけるのだという。
「なあ、いいかげん今回の目的を教えてくれよ」
道中もずっとイザークに対して訝しげだったエリオが、ここでもまた絡む。
着いてからのお楽しみだ、などとはぐらかしてばかりいたイザークだったが、ようやくその真意を明かしてくれた。
「俺の古い友人に面白い男がいてな。いい機会だからおまえたちにも紹介しようと思い立ったのさ。旨いメシでも食いながらわいわい盛り上がろうや」
「いい機会ってあんた、めちゃくちゃ突然だっただろうが」
毒づいているエリオをあえて無視して、長く伸びているイザークの影を踏みながらピーノが「どんな人なの?」と訊ねる。
「そうだなあ……ま、わかりやすく言えばセス教の修道士だ」
イザークの返事にピーノは少なからず驚いた。彼にしては真っ当すぎるというか捻りがないというか、意外な人選だったからだ。はたして厳格に教義を重んずる修道士との食事で盛り上がることができるのだろうか。
こめかみに指先を当て、エリオが「やっと合点がいった」と息を吐く。
「最近さ、どうもおかしいなと思っていたんだよ。何となくピーノとハナが気を遣ってくれている感じだし、イザークだって急に『ゴルヴィタへ行くぞ』なんて言いだすし。おまけに相手はセス教の修道士ときた。これ、おれのためにわざわざそういう席を設けてくれたんだろ。まあ、沈んだ表情を見せてしまっていたおれが悪いんだが」
またしてもピーノは驚かされた。エリオとこれまで兄弟同然に過ごしてきたとはいえ、まだまだ知らない一面もある。
他者から指摘されるまでもなく、彼は心のわずかな変調を自覚していたのだ。
それでも「実はそうなんだ」と種明かしをしてやるつもりもなかった。
「へえ、偶然ってすごいねえ。ならちょうどよかった」
とぼけるピーノへ、すぐさまハナも援護してくれる。
「ほんと、何言ってんの。自意識過剰もそこまでいけば立派なものね」
「そうそう、気のせいだって。思い出してみてよ、ぼくらはいつでもエリオに優しかったじゃないか」
ただし二人とも、いくらか早口になっていたのは否めない。
下手くそな演技はエリオにもあっさりと見破られたようだ。
「別に責めてるわけじゃねえよ。お節介だとは思ってるが」
しかめっ面ではあったが、声の雰囲気から察するに怒ったり苛立ったりしているわけではないらしい。ピーノも胸を撫で下ろす。
そんな彼らへ前を歩くイザークが振り返り、にやりと笑って言った。
「付け加えておくとだな、セス教の修道士といっても『元』がつく。あの堅苦しいレイランド王国にあって、勝ち目のない教義論争を主流派に挑んで破門された男なんだ。いわゆる異端ってやつよ」
「うおっ、結構面白そうな人じゃねえか」
イザークが教えてくれたまさかの経歴に、エリオも俄然興味が湧いたらしい。
さらにイザークは続けて披露する。
「名をリーアム・ファロンといって、修道士になる以前は俺と同じく傭兵を生業にしていてな。戦場で何度も見えたし、刃だって交えている。これがまた強くて、若かりし頃の俺やディーも随分手を焼かされたもんだよ」
「何でそんな猛者がセス教の修道士を志したのよ……」
ハナの疑問ももっともだ。
「きっとやつにもいろいろと思うところがあったのさ」
肩を竦めたイザークが短く答える。
気になるならば本人に訊け、ということなのだろう。
「ついたぞ、ここだ」とイザークが指差した先には、〈酒豪列伝〉というひどい名前のぼろぼろになった看板がぶら下がっていた。




