善良な羊
「ちょっとエリオ、集中したいから邪魔しないでよ」
「そう言われると邪魔したくなるのが人情だよなあ」
日差しもさほどきつくないのどかな昼下がりに、相変わらずのやり取りを交わしているハナとエリオの声が遠ざかりながらも聞こえてきた。
ピーノはといえば、これから外の開けた場所でイザークとともに羊を解体していくところである。
丸々一頭の羊をイザークが近隣の農家から仕入れてきてくれたのだ。
そういった作業に慣れていないエリオたちには「こちらのことは構わず、好きなように遊んでていいから」と伝えている。
ハナは作りかけの笛を頑張って完成させるそうだが、はたしてエリオは何をして過ごすつもりなのだろうか。
「あんたのせいでひどい出来になってしまったら、笛を真っ二つにへし折ってその鼻の両穴に突っ込んでやるからね」
そんな脅しを耳にしたイザークが、大きめのナイフを手にしたままで「見てみたい気もするが」と笑っている。
最初の難関である羊の放血は終わっており、これから二人がかりで皮を剥ぎ、腹部を切り開いて内臓を取りだし、枝肉へと分けていく。
かつてドミテロ山脈にあって羊飼いとして暮らしていた頃、たくさんいた羊たちはほとんど家族も同然の存在であった。毎年春に羊毛を刈り取るため大切に育てられている。ピーノは羊たちが草を食んでいる姿を眺めているのが好きだった。
種が異なるとはいえど、同じ羊をこうしてただの肉塊へと変えていくことに対して、申し訳なく思う気持ちがないわけではない。
ただそういった感傷に浸るには、これまでにピーノは多くの命を奪ってしまっていた。今さらだし、自分自身への欺瞞でもある。
いつの間にかそんなことを考えていた彼へイザークが声をかけてきた。
「どうしたピーノ。何か悩み事があるんだろう?」
イザークの言う通りだ。ずっと気がかりだったエリオの様子について、ここへ来てようやくピーノも他者へ相談してみる腹を決めたのである。
もちろんその相手はイザークをおいて他にない。
内容を聞かれぬようエリオとハナには離れていてもらうべく、イザークの提案によって羊の解体を行うことになったのだ。これならば自然に二人と距離を取れるだろうし、イザークと長く話し込んでいても怪しまれないはずだった。
「うん。実はね、エリオのことなんだけど」
そこからピーノは順を追って話していく。
とはいえイザークには自分たちの素性を含め、すでにいろいろと明かしてある。ピーノとエリオが二人揃ってウルス帝国軍の切り札ともいうべき〈名無しの部隊〉の出であることも含めてだ。
しかし帝国からの逃亡の経緯についてはその詳細を伝えていない。つまりルカとの一件には触れることなくここまできたのだ。
思い返したい記憶ではなかったが、エリオの内心に生じているであろう揺れへと踏み込んでいくためには避けて通れない。
途中で何度か気持ちが高ぶり、言葉に詰まってしまったものの、イザークは一言も余計な口を挟まず静かに耳を傾けてくれていた。
ひっそりとした土地にルカを埋葬し、イザークと初めて出会った場面にたどり着いたところで大きく息をつく。随分と自分が緊張していたことに今さらながらピーノは気づく。
少し間を空けてから、イザークが切りだした。
「──おまえたちと暮らし始めて、どのくらいになるだろう」
頭の中からどうにかその答えを引っ張りだしてくる。
「うーん、ハナがこの前、『百の夜をこの地で迎えた』って言ってたかな」
「はは。あの子らしい、詩的な表現だよ。そうか、もうそんなになるのか。いろいろと向き合っていかなくてはならない時期がきたのかもしれん」
そしてイザークは本題へと入ってきた。
「今の話に出てきた少年、ルカ・パルミエリといったな。パルミエリの名には聞き覚えがある。ウルス帝国お抱えの武器商人が同じ名だ」
「そういえば初めてあいつと会って揉め事になったとき、取り巻き連中がそれっぽいことを口走ってた気がする」
また記憶を手繰って、うっすらとではあるがどうにか思い出す。
イザークは一つ頷き「やはりそうか」と言った。
「実はなピーノ、おまえが話してくれた出来事とほぼ時期を同じくして、帝国の宮廷内で大きな事件が起こっている。そのパルミエリ商会があろうことかレイランド王国への内通を疑われ、当主のシドを始めとするパルミエリ家の人間が一族ごと処刑されたそうなんだ」
ろくに証拠もなかったらしいがね、と吐き捨てながらイザークが握り締めたナイフに力を入れる。手際よく羊の四肢を関節から外していった。
「そういった背景を頭に入れておくと、ルカというその子のまた別の姿が浮かんでくるだろう。今となっては推測でしかないが──」
「死に場所を探してた、ってこと?」
解体で血塗れになった手が、あのときのルカの穏やかな死に顔と妙に重なる。
「俺にはそう思えた。何もできずに家族を失うってのはそれだけ辛いことだ。おまえたち三人もそうだし、親しくしている友人にもそういう者たちがいるんでな。生きることより死ぬことを選んでも不思議はないさ」
感情を押し殺したように淡々とイザークが告げる。
ぽつりとピーノは呟いた。
「じゃあ、あいつはエリオの手にかかって死ねて、それで満足していたのか。だからあんなに穏やかな表情だったのか」
急激に心の底から怒りに似た感情が湧きあがってくる。
「結局あいつは身勝手だよ、そんなの本当に身勝手すぎるんだよ。たった一度でもいいから『おまえらと一緒に行きたい』と言ってくれればよかったのに……! そしたらちゃんと友達になれたかもしれないのに……!」
低く重いピーノの叫びに反応して、先ほどまで誰もいなかったはずの少し離れた木の陰から声がした。
「本当にね」
姿を現したのは、なぜか髪まで濡れたハナだった。
「おまえ、聞いていたのか」
イザークの問いへ彼女は静かに首を縦に振る。
「エリオのことはあたしもずっと気にかかってたの。やっぱりピーノも同じ気持ちだったんだね」
ハナの言葉にピーノはほっとしたが、慌てて周囲を見回す。エリオもくっついてきてやしないかと心配になったのだ。
「大丈夫よ。あいつなら今頃、湖の対岸に向かって全力で泳いでいるはずだから」
先回りして答えをくれたハナだったが、「泳いでいる」とはいったいどういう経緯でそうなったのだろうか。
訊ねてみると、どうやら二人で水泳勝負をしていることになっているらしい。
「だってあいつ、構ってほしいのかあたしの笛作りの邪魔ばかりするんだもの。だから根負けしたように見せかけて水泳での勝負を挑んだのよ。で、あたしはすぐに引き返してきたってわけ」
「何ちゅうひどい女だ……」
眉をひそめつつ、それでも口元に浮かんだ笑みは隠し切れないイザークが唸る。
だがエリオと長年の付き合いであるピーノには、事態の行く末が手に取るようにわかってしまう。
「たぶん今頃、後ろを振り返ってみても姿の見えないハナがどこかで溺れたんじゃないかって勘違いして、めちゃくちゃ湖中を捜し回っているんじゃないかな……」
「え」
不意を突かれたのか、いつもよりあどけない顔を見せるハナ。
そりゃまずいとばかりにイザークも羊の解体作業を一時中断し、三人揃って湖へと駆けだしていく。
その道すがら、ピーノは彼から「さっきの話だが」と呼びかけられた。
「悪いようにはせん。ちょっと預からせてもらうぞ」
エリオに会わせてみたい男がいるんだ、とイザークは言った。




