心凪ぐ
過去編です。
水辺で裸足になったピーノがエリオとともにゆっくりと浅瀬へ踏み入っていく。想像していたよりも水温は冷たくない。
「これが海ってやつか……。確かにでかい」
エリオがそう口にすれば、ピーノも「広いよねえ」と応じる。
「ほら見てよ、向こう岸があんなに遠い」
「川の水を何本集めたらこんなでかい水たまりが作れるんだろうな」
「たぶん魚だって、数も種類もびっくりするくらい泳いでいるんじゃない?」
「間違いないな。一生かかっても食い切れねえぜ」
そんな二人の後ろで、呆れ返ったと言わんばかりのため息がつかれた。
ハナだ。
「さっきイザークが言った。ここ、湖」
袖をまくった腕を前方に伸ばし、指先で差し示しながら彼女が告げた。
振り返りながらエリオは首を捻る。
「ん? どう違うんだよ。でかい水たまりは全部海なんじゃねえのか?」
「あ、わかった。それぞれの土地で呼び方が違うんだよ。ここでは湖って名で昔から呼ばれてるんじゃないかな」
「なるほど! 冴えてんな、ピーノ」
「ふふん、それほどでも」
少し得意げだったピーノだが、後ろにいるハナから「違う、バカ! 違う!」ときつい調子で否定されてしまう。
まだ大陸言語を習得半ばのため、現在の彼女は片言でしか会話できない。
海と湖の違いについて知っていることを話そうにも語彙が足りないのだろう、その表情は随分ともどかしそうだ。
ウルス帝国領を抜ける際にイザークと出会ってからの道中、ハナは頑ななほどに〈シヤマの民〉の言葉を使おうとしなかった。
もちろんピーノもエリオもそのことについて訊ねてみている。自分たちも〈シヤマの民〉と同じ言葉を話せるようになったんだから無理しなくていいのに、と。
だが彼女から返ってきた答えの前に、二人とも沈黙するしかなかった。
思いつめたようにハナは「あたしが死ぬ、言葉も死ぬ」と語ったのだ。
彼女の言わんとするところはピーノにもすぐ理解できた。もはや〈シヤマの民〉の生き残りはハナただ一人であり、彼女の死を以て〈シヤマの民〉に関するすべては消滅する。言葉も、音楽も、舞踏も、魔術も、信仰も、何もかも。
あのニコラ・スカリエのように〈シヤマの民〉の血を引く者はまだ大陸にいるのだろうが、長老ユエや先祖たちの魂を受け継いだのはハナだけなのだ。
不意にそんなことを思い出していたピーノの傍らで、エリオは「じゃあこの案はどうよ」と呑気そうな声で言う。
「こいつらも成長していくのさ。ほんの小さな水たまりでしかなかったやつが、頑張って仲間を集めて湖になって、その中でも一握りの選ばれし精鋭だけが海を名乗ることが許される。憧れだよ。誰もがいつか海になるのを目指して必死に生きているんだ」
「それいいね。何かこう、心に響くよ」
「だろう? おれたちの目の前に広がっているこいつも、まだ遥かな夢の途上にあるんだろうよ。応援してやりてえよな」
「うんうん、本当にそうだね」
二人して頷き合っているピーノとエリオとは対照的に、しかめっ面をしたハナは何度も足元を踏みつけて「もう! だから違う!」と口走る。
そこへようやく巨漢のイザークが姿を現した。
「おう、用意できたぞ……って、やけに盛り上がってるなあ」
仲間外れじゃねえか俺、と顔中に深い皺を作って笑う。
そんな彼へハナが訴えた。
「こいつら、海と湖、違うの知らない!」
言われたイザークはピーノとエリオの顔をまじまじと見つめて、それから納得したように手を打つ。
「ああ、おまえらもしかしてここを海と勘違いしたのか? まあ無理もない。ここヌザミ湖は大陸でも屈指の広さを誇るからな」
スタウフェン商会の頭であるイザーク・デ・フレイ。
彼自身に何の利益もないどころか、一つ間違えばウルス帝国軍に追われる危険さえあったのに迷わずピーノたち三人を救ってくれた男。
あのときはまだ仕事の途中だったにもかかわらず、イザークだけが別行動をとることになった。ディーを始めとする商会の男たちも二つ返事で了承し、快く送り出してくれたのだ。
ピーノたちを引き連れたイザークは本拠地だという都市ゴルヴィタへまず立ち寄り、残っている仕事の段取りを整えていた。
ゴルヴィタはウルス帝国の旧都アローザにも匹敵するほどの大きな街だったが、ピーノもエリオもハナも出歩く気になどなれず、そこでの十日間をただ商館内の一室に引きこもって過ごしただけだ。
そんな三人の少年少女に対し、年長者のイザークは説教めいたことを口にしたりはしなかった。その代わりによく冗談を飛ばして笑っていた。
ピーノたちのための馬を調達し、ゴルヴィタを後にして彼が連れてきてくれた静かなこの地はヌザミ湖という名前らしい。
戦いのために強くなることだけを求められた帝国での日々からようやく離れ、穏やかな空気に満ちた新しい暮らしが始まる。




