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戦場にて鈍く光る〈2〉

 オスカル・リトリコはまだ海というものを見たことがない。

 視界の端から端までひたすら水が埋め尽くす眺めはとても雄大らしいのだが、自分の目で確かめないことには結局あやふやな想像の域を出ないのである。


 そういえばかつての仲間だったエリオとピーノも、オスカルと同様に海を見たことがないと言っていた。外界から隔絶されたような険しい山地で暮らしていたそうだから当然といえば当然だろう。

 濃密な鍛錬の日々を共に過ごした仲間を置き去りにし、別れを告げることなく彼ら二人は逃げた。それでもオスカルには二人を責める気持ちなど微塵もなかった。


 説得役として向かったトスカたちから背後にあった事情を聞かされ、エリオとピーノが下した決断に心底から共感したのだ。彼らの立場に自分を置いてみたとき、大切な人を守る以外の選択肢などありはしないのだ、と。


 昔の記憶を思い出す。彼がヴィオレッタ・クアリアレッラと出会ったのは、まだ齢が十になるかならないかの頃であった。

 朝から晩まで飲んだくれているごろつきや年嵩の娼婦など珍しくもない区域で、オスカルは細工師の職人の下で働いていた。修業というよりは奉公と呼ぶべき日々を送っていた彼だが、元々は貧しい農家の五男坊だ。


 少しでも食い扶持を減らすために家から出されたのだ、と幼心にオスカルも理解していたが、それでも彼は不運ではなかった。師匠となった老いた男はめったに感情を見せないものの、暴力も振るわないし質問すればちゃんと答えてもくれる。

 そして何より、オスカルの手先が抜群に器用であったからだ。


 彼の才能を見抜いたのか、師匠はまだ幼いオスカルが隠れて見様見真似の装身具を作っていても咎めたりはしなかった。それどころか受注した商品の制作を任せてくれるようになる。最初はごく簡単なものから、次第に難易度の高いものへ。


 ヴィオレッタと知り合ったのもちょうどその頃だ。

 初めて見かけたとき、しゃがみこんだ彼女は雨上がりの地面に溜まった泥水をしきりに顔へとかけていた。何度も何度も同じ動作を繰り返す彼女の横顔から、どういうわけかオスカルは目を離すことができなかった。


「おい! おまえ何見てんだよ!」


 鋭い声が飛んでくる。ややあってから、オスカルはその声が自分へ向けられたものなのだと気づく。

 ゆらりと立ち上がった彼女の背丈はそこらの少年たちよりもずっと高く、気後れしたオスカルは思わず後ずさりし、ついには転んで尻餅をついてしまう。


「ははっ、ばっかみてえ。なに、ちょっと睨まれたくらいで涙目になってんの? 恥ずかしすぎるやつだな」


 笑いながらやってきた彼女はオスカルを見下ろす。

 そんな彼女の右目付近には火傷と思しき大きな赤い痣があった。どうやらまだ出来て間もないものらしい。もしかして泥水で冷やそうとしていたのだろうか、とオスカルは思い至る。

 彼の視線に気づいた少女は慌てた様子で右目のあたりを手で覆い隠す。

 勝手に見てんじゃねえよ泣き虫野郎が、という暴言とともに。


 親しくなれそうもない出会い方だったにもかかわらず、幾度となく顔を合わせていくうちに二人はいつしか友人同士となった。

 ヴィオレッタという名の少女は娼婦の母親と二人暮らしだったのだが、彼女の口をついて出るのは母への愚痴ばかりだ。お世辞にもいい母親ではなかったらしく、今もヴィオレッタの顔に残る痣だって母のせいなのだという。


「自分が客をなかなかとれないからってさ、その八つ当たりであたしに熱した鍋をぶつけてくるんだぜ? あのババア、頭がどうかしてるよ」


 そんなのおまえの心根が醜いからだっての、と彼女は吐き捨てた。

 ヴィオレッタにとって母親とは子供を庇護してくれる温かな存在ではなく、負の感情をぶつけてくるだけの厄介者でしかなかったのである。


 ある日、オスカルは唐突に気づいた。

 仕事場で装身具を制作しているときも、師匠から言いつけられてお使いのために外へ出ているときも、くたくたに疲れて寝床へ入るときも。彼はずっとヴィオレッタのことを思い浮かべていたのだ。よく怒っているけれど最近は少しずつ笑顔も増えてきた、そんな彼女のことばかりを。


 両親や師匠など、他の誰に対する気持ちとも違う。

 それはきっと、ヴィオレッタこそが自分にとって特別な人だからだ。

 一度そのように認識してしまえばもう後戻りはできない。これまでのように彼女と自分の手が触れ合うのを想像しただけで、顔から火が出るのではないかと心配するほどに熱っぽくなってしまうのだ。


 いずれ彼はお節介な友人から教えられることになる。

「ははあ、それは恋ってやつだね」と。

 よけいなお世話だ、と思う一方で静かに納得もしていた。

 恋をするなら、その相手はヴィオレッタ以外にいるものか、と。


 手先の器用さくらいしか取り柄のないはずだったオスカルだが、皇帝から圧倒的な信頼を寄せられているスカリエ中佐なる男に認められたのはもう二年近く前になるだろうか。


 新設される部隊へとヴィオレッタともども引き抜かれ、新しくできた仲間たちと一緒に様々な経験を積み重ねてきた。

 仲のよかったフィリッポやカロージェロに、去ってしまったエリオやピーノ。本当にみんな気のいいやつらだった、とオスカルは振り返って思う。


 戦場の真っ只中にあってそんなことを考えてしまうのは、心のどこかでもう会えないのがわかっているからかもしれなかった。


「そんなわけあるかよ!」


 あえて口に出し、自らを鼓舞する。

 耳をつんざく大勢の兵士の怒号、騎馬が巻き上げる土煙。充満しているはずの血の匂いには、鼻が麻痺しているのかまったく感じとることができない。

 後方から休む間もなく放たれてくる矢の気配を察知しては避け、オスカルはひたすらに走り続けていた。ヴィオレッタを両手で抱きかかえて。


 彼女の右太腿は半ばからちぎれてしまっている。とめどなく血が流れ、意識も朦朧としているのか目の焦点があっていない。

 だが、彼女の手が伸びてきてオスカルの頬へ指先が触れた。


「……相変わらず泣き虫なのは直らないね」


 うっすらと微笑んだヴィオレッタに言われてようやく、彼はずっと涙をこぼしながら逃げ続けていたのを知った。

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