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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
6章 鳴り響く祝福の鐘の音
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スイヤール大聖堂の天辺で

 チェスターとソフィアが結婚するまでにどれほどの時間もかからなかった。あの夜からひと月も経たぬうちに、二人は正式に夫婦となることを決めたのだ。

 しかしマダム・ジゼルの館に暮らす者は誰一人として、その選択を早すぎるとは感じていなかった。


「やっとですか。お二人のいる空間は甘々すぎて目の毒だったから」


 辛口にそう言い放ったのはナイイェルだった。雨降って地固まる、雪解けとともに春も訪れる。そんな表現では手ぬるく思えるほど、チェスターとソフィアはいつだってべったりとくっつき、互いに幸せそうな笑みを浮かべていたからだ。

 人は変われば変わるものだ、とピーノも唸ることしきりである。


 ようやく長年の想いを通わせ合った翌朝、二人揃って神妙な表情でみんなの前へ姿を現したのがもう随分昔のように思えてしまう。

 あのときチェスターは娼館の主であるマダム・ジゼルに対して、ソフィアの身請けについて切り出したのだ。

 だがあっけらかんとした調子で彼女は言った。


「身請け? あのねチェスターくん、そもそもうちにそんな制度はないよ」


 さすがにチェスターも困惑を隠し切れず、「身請けがない……?」と歯切れが悪い。いつもの人を食ったような受け答えがすっかり彼から消え失せていた。


「いやでも、どこの娼館にだって」


「よそはよそ、うちはうち」


 マダム・ジゼルにはまったく取り合うつもりがなさそうだった。このままでは話がまとまらないと見てか、コレットが折衷案を出す。


「じゃあジゼル、一つだけ厳しい条件をつけちゃいましょう。必ず週に一度は二人揃ってここへ顔を見せに来ること、これでどうかしら」


「そんなので……?」


 意を決してこの場へやってきたはずのソフィアも、身請けに代わる条件のあまりの楽さへ呆けたような声を漏らした。

 そんな彼女をコレットはわざとらしくからかう。


「なにソフィア、嫌なの? あーあ、家族だと思ってたのに寂しいなあ」


「まさか、そんなわけないです! 家族です、ずっと家族でいさせてください!」


「よかった。ならこの話はこれでおしまい」


 あっさりとソフィアを言いくるめてコレットが幕を引こうとする。

 けれども「待ってください。その前にわたしからも」と挙手をした者があった。タリヤナ教徒らしく全身に白い衣服を纏ったナイイェルだ。

 彼女の視線は真っ直ぐチェスターへと向けられた。


「チェスターさん、わかっていますよね。ソフィア姉さんをまた悲しませようものなら、ここにいる全員から刺される覚悟でいてください」


 とどめはピーノにお願いしますので、といきなり彼女から振られてくる。仕方がないのでピーノもこれ見よがしに握り拳を作っておいた。

 おまけに他の女たちも同調して握り拳を突きだしてきたとあっては、チェスターといえど白旗を上げて苦笑いを浮かべるしかない。


「怖いなあ……。絶対助からないやつじゃねえか、それ。でも大丈夫だ。二度とソフィアを泣かせはしない。約束する」


 今ではもう、彼がフィオナの名を口にすることはなくなった。きっと二人の間で思いの丈をぶつけ合い、結果として新しい名前であるソフィアを選んだのだろう。


 そのように波乱万丈の末の順風満帆といった具合の彼らだったが、結婚するにあたってきちんとした挙式は行わないと報告してきた。


「だって、ナイイェルが出席できないなら何の意味もないからさ」


 そう言ってソフィアは笑っていた。

 信仰心などあるかないかさえ定かでないほど薄い彼女であっても、スイヤール市民としての登録上はセス教徒になっている。

 信徒の結婚式は例外なくセス教の寺院で執り行われるため、そうなるとタリヤナ教徒であるナイイェルは参列が認められない。個人の信仰には寛容なスイヤールでも異なる宗教施設への入場は禁じられているからだ。


 当のナイイェルは「気にしなくていいんですけど」と言うのだが、ソフィアにとっては絶対に譲れない線なのだろう。その気持ちはよくわかる。


「セス教の方に頼んで鐘だけでも鳴らしてもらえないかなあ。鐘の音には聖なる力があるとされていて、結婚式の最後に鐘を鳴らすことで晴れて夫婦となった二人の行く手に待ち構えている邪なものを打ち払う、とされているんです」


 館内の誰よりもセス教について熟知しているクロエは、祝福のための儀式が執り行えないことを残念がっている。

 彼女の説明を受け、ピーノの頭に名案が思い浮かんだ。


「鐘……。鐘ね」


 任せて、とだけ口にして踵を返し、玄関へと向かう。

 背中へはチェスターの不安そうな声が届いてきた。


「任せてって、何をだよ。ろくな予感がしないのはおれだけか……?」


「揉め事にはしないってば」


 後ろ向きのまま手を振って、「──たぶん」と心の中で付け加える。

 外へ出たピーノは壁を伝って一気に娼館の屋根まで駆け上がった。そしてひしめく建物の屋根から屋根へ、軽業師のごとく跳んで渡っていく。

 彼の目的地は中心部にあるセス教の大聖堂。数ある壮麗な建物のうちの一つであり、そびえる鐘楼は街を見下ろすことのできる、スイヤールで最も高い建造物だ。


 あっという間に大聖堂へと到着したピーノは、そのまま急勾配の屋根へと飛びつく。足を踏み外してしまわないよう気を配りながら鐘楼を目指した。

 さすがに大聖堂と呼ばれるだけのことはあるな、と堅牢な石造りの建物へ感心する。一朝一夕では醸し出せない風格が厳然として存在していた。


 最上部に鐘が備え付けられている塔をするするとピーノは登っていく。

 息も切らさず天辺へたどり着き、誰もいないかどうかをまず確認した。鐘を鳴らす時刻以外には守人も上がってきていないはずだが、念のためだ。

 目の前にある鐘は想像していたよりも巨大だった。小柄なピーノはおろか、巨躯のイザークでさえ内部にすっぽりと収まるのは間違いなさそうだ。


 その内側から垂れ下がっている太い紐を握った。ピーノは力いっぱい引き下ろしたが、普段聞いているような綺麗な音が出ない。繰り返しでたらめに引っ張り続けて、ようやく音を鳴らすためのコツをつかむ。

 梯子の下の方から「こらっ、どこのどいつじゃ! 由緒正しき鐘へ勝手に触れよって!」という怒鳴り声がする。不届き者がいることにやっと気づいた鐘の守人が慌てて駆けつけたようだ。


 ごめん、もう少しだけ。ピーノはまた鐘を打ち鳴らした。チェスターの想いに応えたソフィアがこの先幸せな人生を歩めるように。澄んだ鐘の音がマダム・ジゼルの館までちゃんと届くように。

 そして願わくば、大陸中へ響き渡るように。


       ◇


 しかしこの日、ピーノが鐘を打ち鳴らしたのと時を同じくして、遠く離れた地ではレイランド王国軍とタリヤナ教国軍との間でついに戦端が開かれていた。

6章はここまで。

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