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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
6章 鳴り響く祝福の鐘の音
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セス教とタリヤナ教に関するいくつかの事柄

 スイヤールでは毎日、複数の市場が開かれている。最も規模が大きく、珍しい異国の品々まで揃っているのはやはり中心部からほど近い場所での市場であり、ナイイェルが行きたがったのもそこだ。

 ただ近頃はどの市場でも異変が生じていた。なかなか入荷してこない品物のせいで、店頭の陳列台がところどころ空白となって寂しい姿になっているのだ。しかも日ごとにその数が増しているように思う。


 ピーノはイザークから事情を聞かされてはいた。レイランド王国とタリヤナ教国の対立が激化の一途をたどり、いつ戦端が開かれてもおかしくないほどに状況は切迫しているのだという。そんな情勢では貿易商とておいそれとは動けない。腕自慢の集まったスタウフェン商会でさえかなり慎重になっているのだそうだ。


 かつてはウルス帝国を共通の敵として手を結んでいた両大国だが、結局そんなものは一夜の幻に過ぎず、大陸に暮らす民たちが手にしたはずの平和はあっけなく水泡に帰しつつあった。

 だったら、と苛立ち混じりにピーノは思う。

 ぼくたちが払った犠牲はいったい何だったというのか。


 市場を歩き回りながら、舌打ちしたくなるほどに気持ちが荒みかけていたピーノだったが、小さな力で手を引っ張られて我に返る。

 レベッカだった。


「ピーノ、顔が怖い」


 少し怯えたような彼女へ、すぐにナイイェルも同調する。


「そうね、随分と気難しそうになっているかな。もっとバカみたいにはしゃいで笑ってくれたらうれしいんだけど」


「ナイイェルは、もう。ねえピーノ、何か欲しい物がなかったりしたの?」


 だったら他のお店で探すのを手伝うよ、と言ったのはクロエだ。

 まったく見当違いではあるものの、そんな彼女の優しさが今のピーノにとってはとてもありがたかった。

 横から含み笑いとともにナイイェルが混ぜっ返してくる。


「あのさ、クロエじゃないんだし」


「そんなのわからないでしょ。きっと食べてみたいお菓子とかがあったんだよ」


「はいはい。じゃあお菓子に絞って片っ端から探しちゃう? 当たってるかどうか、ピーノに判定してもらいながらね」


「ならわたしは〈陽だまり屋〉さんのマドレーヌを推すよ。たとえ答えが違っててもあれなら代用できるはず」


「とんだ迷推理だこと。確かに美味しいけど」


「美味しかったらもうそれで正解みたいなもんだってば」


「ふむ、一理あるね」


 ピーノ抜きでどんどん話題が明後日の方向へずれていく。

 仲がいい二人のやり取りを眺めていると、大陸のどこかで戦争前夜のような空気になっているだなんてにわかには信じられない。

 父親が敬虔なセス教徒だったクロエ、それに真っ白な衣服を全身に纏ったタリヤナ教徒のナイイェル。互いのそのような境遇などまるで気にした様子もなく、彼女たちはマダム・ジゼルの館で友情を育んでいる。


 もちろん国同士の利害関係が個人のそれとは異なり、複雑に絡み合っていて容易に解けるものではないのはピーノだって百も承知だ。

 万が一スイヤールにまで戦火が及ぼうとも、マダム・ジゼルの館の誰一人として傷つけさせはしない。

 そんな覚悟を決めている彼の手が再び小さく引っ張られた。


「まだちょっと怖い顔」


 くりっとしたレベッカの赤い瞳は、真っ直ぐにピーノの顔を見上げている。


       ◇


 セス教とタリヤナ教については、ピーノもそれぞれの宗教の歴史や教義の表面的な部分などをさらっと習っただけに過ぎない。


「決して深入りしてはいけないよ。人知を超えた力への信仰というのは、ほんの些細なきっかけで君たちを絡めとってしまいかねない、とても恐ろしいものだ。心が弱っている際には特に警戒すべきだろうね」


 かつての師ニコラ・スカリエがそのように語っていたからである。

 あの頃から少し年を重ねた今のピーノからすれば、結局ニコラ自身が彼の言う「人知を超えた力」へ溺れていたようにしか思えないのだが。


 セス教はその名の通り、セスという若者によって開かれた。

 語り継がれているところによると、青年セスには眉唾物の伝説がある。彼は三度命を落とし、その度に蘇ったというのがそれだ。他にも彼にまつわる大仰な武勇伝や奇蹟的な逸話は数あれど、これを上回るほどではない。


 今も大陸のどこかで生きているとされるセスを神格化することによって、セス教は勢力を拡大し続けた。セスの死を口にするなどもってのほか、信仰において禁忌中の禁忌であり、残された道は破門のみとなる。


 セス教の創始よりおよそ百二十年後、歴史はまた大きく動く。グエルギウスなる修道士の登場によって。

 彼は修道士としてではなく、政治家として非常に優れていた。当時まだ小国であったレイランド王国の中枢に食い込み、国王の信頼を得て権勢を欲しいままにしたのだ。グエルギウスが並外れて有能であったがために、レイランド王国は地域の大国へとのし上がっていく。


 併せてセス教もレイランド王国の国教として正式に定められ、その立場を確固たるものとした。同じセス教であっても乱立していた他の宗派はグエルギウスによって徹底的に弾圧され、唯一グエルギウス派のみが正統とされたのだ。


 一方のタリヤナ教が歴史の表舞台へ姿を現すのは、グエルギウスの死後である。セス教よりも二百年近く遅い。

 こちらはタリヤナという地名が由来となっている。銀髪に真っ白な肌、灰色の瞳。際立った身体的特徴を持つ民の暮らす北方の地、それがタリヤナだ。


 その珍しい容姿ゆえに、徒党を組んだ人買いにさらわれてしまう事例も少なくない。クレイシュという名の美しい少年もその一人だった。彼こそが(のち)にタリヤナ教を開くことになる傑物である。

 クレイシュの数奇な人生を端的に形容するならば、裏切りと暴力とひとつまみの愛、そんなところであろうか。


 競りにかけられた彼を一目で気に入って購入したのは、セス教でもかなりの地位についていた司教の男だ。老年に差しかかっていたこの男は嗜虐的な趣味を持ち、クレイシュに傷をつけることで性的な快楽を得ていたとの伝聞が残されている。ただしどこまで本当のことなのかは判然としない。

 いずれにせよ、クレイシュはこの男を殺害し、全裸のままの死体を装飾品の槍で壁へと打ちつけてから逃亡した。血文字で「セス様のご加護があらんことを!」と書き殴って。


 その美貌を最大限に生かすべく、彼は男娼としての人生を歩みだす。後ろ暗い生業に手を染めてある程度の富と力とを持ち合わせた粗暴な男どもこそが、クレイシュにとっての格好の標的だった。

 褒めそやし、媚び、焦らし、弱みを見せ、距離をとり、与える。街を我が物顔で支配している男たちを手玉にとっていくのは、クレイシュにとってあまりにも簡単すぎた。

 だから彼は一向に満足できなかったのだろう。強い男へ、より強い男へ。そうやって寄生する相手を乗り換え続けたクレイシュの行きつく先が国盗りである。


 愛こそすべて。その言葉を旗印として、クレイシュはタリヤナの地に白色を基調とする宗教国家を作り上げた。何人たりともこの地に生きる者たちを虐げようとすることは許さない、とばかりに領域を侵す者へは苛烈な報復をもって揺るぎない姿勢を国の内外へ示していく。


 生涯の大半が血に塗れていたクレイシュではあったが、タリヤナ教国の民からは絶大な信頼と情愛を寄せられていた。彼の死に際しては国の全土で喪に服し、どの家からもすすり泣く声が聞こえたという。

 聖クレイシュと贈り名された彼もまた、タリヤナ教の神となって今に至る。

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