よけいなお世話
すでに今夜もマダム・ジゼルの館では艶やかに営業が始まっている。
そんな中、用心棒役であるピーノは心底からあきれ果てていた。
「不審者一名、発見。叩きだされたいの?」
廊下で冷たく彼が見下ろした先には、スタウフェン商会の創業者であるイザーク・デ・フレイが扉に耳を当てた姿勢でしゃがみこんでいる。こともあろうに、部屋の主はあのソフィアだ。
世間では大商人などと持て囃されている男のこんな姿を部下たちが目撃したなら、恥ずかしいやら情けないやらで涙を流すのではないだろうか。
扉の向こうにいるはずのソフィアには気づかれないよう、小声でピーノが促す。
「とにかくここから出て。娼館で盗み聞きなんて悪趣味だよ……」
突然、部屋の中から「だからもう構うなって言ってんだよ!」という叫びが聞こえてきた。ソフィアの声で間違いない。
客との口論か、とピーノが身構えるも、続いて耳にしたのはいずれもソフィアによる罵りじみた怒鳴り声ばかりだ。まるで嵐のようでさえある。
それでも一向に慌てることなく落ち着き払った態度のイザークから察するに、どうやら彼は今夜のソフィアの相手を知っているらしい。
「いいかピーノ、これは大事な役目なんだ。事の成り行きを見届けずしてこの場を離れるなど俺には──」
無駄に重々しく告げてくるイザークの首根っこをつかみ、有無を言わせず引きずりながらピーノはそのまま階下の食堂へと連行していった。
◇
まったく乱暴なやつだ、と愚痴りながらイザークがそろりと食堂の椅子へ腰掛ける。ピーノを横目で見ながらしきりに臀部をさすっているのは、廊下を引きずっていかれたことへの当てつけなのだろう。さすがに階段では立ち上がって自分の足で歩いていたが。
何事もなかったかのようにピーノは無視して話を進めていく。
「そもそもいつスイヤールにやってきたのさ」
「つい先ほどだ。依頼の完遂がずれこんでな、ちと予定が狂ってしまった」
あっさりと痛がる素振りを止め、イザークは「かなり飛ばしてきたんだぜ」と馬に跨るような仕草をしてみせる。
まったく悪びれるところのない様子に、さすがにピーノも物申さずにはいられない。
「そんなに急いで駆けつけた挙句、あんな覗きまがいの行為を? 確かにソフィアは綺麗だし、相手の男の人との言い争いがどうなったのか気になるかもしれないけど、それでもぼくは見損なったよ」
敬意を持っている相手だからこそ、少なからず憤りがあるのだ。
しかし当のイザークはピーノからの小言などどこ吹く風である。
「んー、どうも話が噛み合ってないようだな。おまえ、あのソフィアという女の今日の客が誰なのか、何も聞かされていないのか?」
知らない、とピーノは首を横に振る。
彼にとって客の素性がどうであれ、用心棒としての仕事に大した影響はなかった。娼婦たちを脅したり、傷つけたりするような無粋な輩がいれば実力で排除する、ただそれだけのことだ。相手の力量の多寡など些事に過ぎない。
そもそもスイヤールを取り仕切っていた悪名高きメルラン一家をピーノが単独で皆殺しにした一部始終は、広く裏社会の連中へと知れ渡っている。今さらマダム・ジゼルの館の女たちへ無用のちょっかいをかけようとする命知らずの者など存在しないも同然だった。
率直に言えば、金持ちで教養も備えた行儀のいい客ばかりなのだ。
「そうかそうか、知らんのか。ま、教えてやらんでもないけどな」
などとイザークがもったいつけている間に、また別の野次馬が食堂へひょっこりと顔を出す。マダム・ジゼルとコレットの二人である。
両手を腰にやって胸を反らし気味にしたマダム・ジゼルが「で、首尾はどうだったの」とイザークを質す。これではまるで詰問だ。
「すまん、いいところでピーノに邪魔されてしまった」
イザークはイザークで肩を竦めながら抜け抜けと言い放つ。
これにはピーノも驚くしかない。
「ええ……ぼくのせいなの?」
だが館の女主人と副長は揃って優しく微笑む。
「大丈夫、君のせいじゃない。イザークが使えないだけだから」
「本当にもう、イザーク様ったら肝心なところで、ねえ」
二人の女の言葉には容赦というものがなかった。
「嘘だろおい」
俺に矛先が向くのかよ、とイザークが天井を仰ぎ見るようにして嘆息した。ピーノにしてみればいい気味である。
「こんな頼りない方が雇い主だから、チェスターさんも」
「そうだな。勇将の下に弱卒無し、の逆をいく男たちだね」
彼女たちの毒はとどまるところを知らない。
「待ておまえたち、結果は最後までわからんだろうが。万が一ということもある。今夜こそは意を決したチェスターが例の娘を押し倒しているかもしれんぞ」
どうにも自信なさげなイザークの擁護を、マダム・ジゼルは「はん」と鼻で笑い飛ばしてしまう。
「無理無理、チェスターくんにそんな度胸があるものか。ほんのわずかでもあったなら、あの二人の仲だってもう少しどうにかなっているさ。今夜だって黙りこくったままお茶を飲んで、苛立ったソフィアに怒鳴られておしまいだよ」
「あんまりじれったくて、尻を蹴っ飛ばしてやりたくなるわね」
いつでも冷静沈着なはずのコレットも何やら物騒なことを言っている。
ここでようやくピーノが口を挟んだ。
「え、何? ソフィアの今夜のお客さんってチェスターなの?」
イザーク、マダム・ジゼル、コレットの顔を順繰りに見回しながら。
そうよ、と答えてくれたのはコレットだった。
「年に一度だけ、彼はうちのお店に客として訪れてくれるのよ。給料を貯めて貯めて、大枚叩いて好きな人へ会いに来て、何もせずに帰るの」
「ソフィアの話によれば、ね。まったく、品行方正すぎて泣けてくるよ」
マダム・ジゼルも力なく首を横へ振っている。
どういうわけだか、ピーノは彼女たちの舌鋒の鋭さを前にして少し居心地の悪さを感じてしまう。沈黙を選んで何も言い返さないことにしたらしいイザークも、随分と縮こまっているように見える。
そしてもう一人、いつの間にか扉のところへ立っていた話題の主役も。
「ったく、いい大人が雁首揃えて。よけいなお世話なんですよ。おいピーノ、この人たちが言ってることなんて半分も信じるんじゃねえぞ」
そう忌々しげに語るチェスターの左頬には、鮮やかな紅い手形がくっきりと浮かび上がっていた。




