きっとこれは悪い夢
シャーロットたちにはこれからレイランド王国での暮らしが待っている。そうは言っても、箱型馬車の窓から見える景色にはゴルヴィタとの違いなど特になく、いまいち実感には欠けていた。
イザークはもう傍にいない。でも、代わりに父は遠いところへ行ってしまわずにすんだのだ。彼のおかげで。
いつの間にか隣ではルーシーが小さな寝息を立てている。彼女の頬には、先ほどの涙の跡が細い筋となってまだ残っていた。
音量を抑えた声でブライアンが言う。
「寝かせておいてあげなさい。ずっと気を張った生活が続いていたんだ、疲れているのは当然だろう」
それから彼は頭を下げた。
「不甲斐ない父親のせいでこれまでも、そしてこれからも多大な苦労をかけることになるはずだ。本当にすまない」
だが重苦しくなりかけた空気をリタの笑顔が押しとどめる。
あの六日間、折れそうになるシャーロットの心を幾度となく支えてくれた柔らかい微笑みを浮かべ、リタはブライアンの腕に手を添えた。
「家族四人、新しい土地で出直しですね。わたしには貴方と二人の娘さえ元気でいてくれれば、他に何も望むものなどありません」
シャーロットもすぐに賛同した。
「そうだよ、お父様。わたしもお母様と同じ気持ちだからね。きっとルーシーも」
今はぐっすり眠ってるけどね、と親友にして姉妹である少女を指差す。
「あれ? ふふ、ほら見てよ。ルーシーったら涎が──」
その瞬間、馬車がひどく揺れた。しかも激しい揺れだけで終わらず、そのまま投げ出されるように横転してしまう。
シャーロットとブライアンがそれぞれ下敷きとなる形で、ルーシーとリタの体を受け止める。だがその際にシャーロットは扉へ強く頭を打ちつけてしまった。
少しの間気を失っていた彼女が意識を取り戻したとき、真っ先に視界へ飛び込んできたのは愛する家族の顔ではなかった。
分厚い下唇に大きな傷跡のある巨漢がシャーロットの右手首を無造作につかみ、軽々と持ち上げていたのだ。
「へえ、こいつも相当な上玉じゃねえか」
見知らぬ男に品定めされる謂れなどない。
彼女は即座に顔を背けた。
「おーおー、可愛らしい仕草じゃないの」
「遊び気分で仕事をするな。その小娘もさっさと縛り上げろ」
叱りつけているのは異様なほどに目つきが鋭い、痩せぎすの男であった。
ようやくシャーロットにも状況が飲み込めてきだした。素早く周囲に視線を向けると、分厚い下唇の大男や痩せぎすの男の仲間と思しき連中が総勢で九人。
レイランドで狼藉を働いている野盗団なのか、どこかの軍から逃げだした兵隊崩れのような連中なのか。こういった手合いと関わったことのないシャーロットにははっきりとわからなかった。
二人の護衛兵は馬とともに地面へ横たわっている。ぴくりとも動かない様子から察するに、おそらくは既に殺されているのだろう。
そしてリタ、ルーシーの二人は猿轡を噛まされたまま縄で縛られていた。だがここにいるべきもう一人が見当たらない。父のブライアンだ。
分厚い下唇の大男がもっさりとした調子で返事をする。
「わかってるって。先方の希望はブライアン・ワイズの殺害、きっちりかっちり殺しとけってんだろ? なあに、その後の俺たちの儲けにちょいと思いを馳せただけさあ」
父を殺す。その言葉に反応したシャーロットは出鱈目に暴れだした。早く、早く父を捜しだしてみんなと一緒にこの場から逃げなくては。
「あーん? うざってえなあ」
いきなり頬へ強烈な平手打ちを食らい、彼女の意識は再びなくなりかけた。それでもどうにか踏みとどまる。
「おい、何してる! 傷なんてつけたらてめえから先に始末するぞ!」
また痩せぎすの男から怒声が飛ぶ。
ひゅう、と口笛を吹いた分厚い下唇の大男は「おっかないねえ」とだけ口にして、何も持っていない左肩だけを竦めてみせた。
額に手をやり、ため息をつきながら痩せぎすの男が噛んで含めるように話しだした。
「いいか、こいつらみたいな身分の高い女どもは高級娼館へ売りさばける、ありがたい商品なんだ。傷物になった商品は大きく値が下がるのはわかってくれるよな」
「ふーん。で、いずれは俺たちみたいなごろつきにも手が届く、場末の娼館まで落ちていくってわけか。へへ、そんときゃ客としてたっぷり相手してもらわねえと」
もう意思の疎通を半ば諦めたか、痩せぎすの男は別の連中へと顔を向ける。リタやルーシーのいる方向だ。
顔のほとんどを髭で覆われた男が剣の柄でリタの頭を軽く突く。
「こっちの少し年がいった女はどうしますか?」
ワイズの妻か、と痩せぎすの男が言った。
「その女は別にどうでもいい。邪魔になるようならこの場で始末しろ」
助けようにも体が動いてくれず、無力さと粗暴な男たちへの怒りとで、シャーロットの血だけが今にも全身から噴きださんばかりに激しく脈打っている。
彼女をいまだにつかんだままの、分厚い下唇の大男が間延びしたしゃべり方で反対意見を述べた。
「おいおい、そりゃあんまりだろうがよ。器量はいいんだから、それこそ場末の娼館なら引く手数多だろ。間違いなく一晩くらいの酒代にはなってくれるぜえ」
舌を出し下卑た笑みを浮かべる。
リタとルーシーも真っ青な顔をして怯えていた。他人の命を何とも思っていないこの悪党どもへ抵抗などできるはずもない。
そこへ二人の男が悠々と歩いてやってきた。先ほどシャーロットが付近を確認したとき、最も遠方にいた二人組だ。
「終了したぜ」
二人組の内の片方が続けて報告する。
「万が一見つかったにせよ、誰もあの死体がブライアン・ワイズとはわからないくらいぐちゃぐちゃに顔を潰しておいた。ま、野ざらしにしておきゃどのみちただの骨になる」
「よし」
痩せぎすの男が大きく頷いた。
今のやりとりはいったい何なのだ。死体、ブライアン・ワイズ、顔を潰しておいた。それぞれの言葉の意味はわかっていても、シャーロットの頭の中ではまるで繋がっていかない。心が必死に理解を拒んでいた。
「我が身可愛さに誇りを売り飛ばしたそうだな、あの男は。よほどゴルヴィタには人材がいないらしい。とはいえそんな屑でもおまえらにとっては大事な家族だ。目の前で始末しなかっただけありがたく思え」
恩着せがましい発言の後、痩せぎすの男は「撤収だ」と短く告げる。
だがここまでおとなしくしていたリタが、ブライアンの死を聞かされて気が触れたように叫びだした。
「よくも! よくもあの人を殺したな! あんなに優しくて、あんなに素敵だったブライアン様を!」
かすれた声に、シャーロットの知らない狂気がにじむ。
「あの人を屑呼ばわりしたこと、今すぐに撤回しなさい! 泥水にも劣るおまえたちみたいな悪党に何がわかる!」
「それだけか?」
リタへと近づいていった痩せぎすの男が剣を握る。
そして無造作にリタの胸を一突きにした。貫通だった。
「邪魔になるなら殺す、さっきそう言ったよな」
冷徹に吐き捨て、そのままリタの顔面を足蹴にしながらべっとりと血のついた剣を引き抜いた。
「あーあ、もったいねえことをしやがる」
分厚い下唇の大男がそう口にした途端、シャーロットの体が宙に浮いた。力任せに放り投げられたのだ。
肩から地面に落ち、痛みとともに彼女は上体を起こす。すぐ近くに泣くことさえできないでいるルーシーの顔が見えた。
うんざりしたような口調で痩せぎすの男が言う。
「面倒くさい……。いいか娘ども、おまえたちは無駄に反抗したりするなよ。両親みたいなみじめったらしい死に方をしたくなければな」
よく晴れた空を見上げたシャーロットはきつく目を瞑った。世界が暗転する。
ああ、きっとこれは悪い夢なんだ。




