事の始まり
小国であるゴルヴィタ共和国にとって、近隣諸国との関係については細心の注意を払う必要があった。中でも群を抜く規模の大国、レイランド王国とは友好を維持していかなければならない。隣接しているだけになおさらだ。
しかしシャーロットはこの隣国へあまりいい感情を抱いていない。理由は単純にして明快である。レイランド王国において、女性の地位は非常に低く見られていたからだ。
その点については何度かルーシーとの会話でも話題に上っていた。
「あんな国、絶対に移住したくないわね」
シャーロットよりも舌鋒鋭く、彼女はそう切って捨てるのが常である。
ルーシーが嫌うのも無理はない。レイランド王国において学問の道を志す女性がとるべき選択肢は、たった一つしか用意されていないのだ。すなわち、セス教の修道女となること。ひたすらセス教の教義について思索を深める日々のみが、レイランド王国に生を受けた女が選び得る唯一の学問の道であった。
もちろん、シャーロットやルーシーが暮らすゴルヴィタ共和国では事情が異なる。先々代の統領によって大学が創設され、まだ数は少ないながらも籍を置いている女性もいると聞く。
統領の娘という恵まれた立場にある彼女たちは、裕福な家庭に育った同年代の少年たちと遜色ない教育を受けられていた。二人ともいずれは大学への進学を視野に入れていくようになるであろう。
「少なくとも教育の機会は男女にかかわらず公平であるべきだわ。女より男の方が優れている、というはっきりとした証拠が出てこないうちはね。シャーロットもそう思うでしょう?」
法学に関心を抱いているルーシーほどの問題意識を持たないシャーロットは、なだめるように「うん、そうだね」と相槌を打った。
「まあ、あの国は何かと生きづらそうではあるよね」
レイランド王国は宗教に関しても不寛容である。セス教を国教とし、かつグエルギウス派という最大宗派を正統と位置づけ、それ以外の宗派を信仰する者を異端として厳しく取り締まっている。対立関係にあるタリヤナ教徒など、見つけ次第極刑に処されてしまうことだろう。
一方のゴルヴィタ共和国では、タリヤナ教徒もセス教徒も共に生活しており、他の零細規模な宗教群の信徒も含めてさしたる問題は起こっていない。たまに起こる小競り合いくらいがせいぜいだ。
付け加えると、こういった冷笑的な意見もある。
「宗教に不寛容であれば特権階級だけが肥え太り、寛容であればもう少しだけ肥える人間が増えるのさ」
様々な地域を渡り歩き、見聞を広めてきたイザーク・デ・フレイの言葉だ。
すでにルーシーも知っているが、改めて引用しながらシャーロットが胸を張って語る。
「デ・フレイ傭兵隊長の言い方はいくらか過激だけれど、レイランドのような閉じた国に魅力を感じないって点ではわたしたちの見解と一致するのよ」
「それはそうとして、ねえシャーロット。何でそんな他人行儀な呼び方なの? イザーク様って呼べばいいじゃない」
「ちょっと、今の話の流れで食いつくところがそこ?」
「無理なんてよくないわ。溢れだす恋心は自然と抑えられなくなり、助言を求めて近しい友に胸の内を余さず打ち明けてしまうのが世の常なのよ」
いつもと同じく澄ました表情をしているルーシーだが、よく見れば口の端がかすかに震えているのがわかる。必死に笑いを堪えているのだ。
「もう、そうやってわたしをからかってばっかり。ルーシーにも好きな人ができたら、絶対にこの倍はお返しするもん」
「どうぞどうぞ、ご自由に」
このように賑やかな彼女たちの日常は、あっという間に崩れ去っていく。
◇
事の発端は取り立てて珍しくもない話である。
ゴルヴィタ近郊の廃城を拠点とする野盗団、その掃討をイザークらの傭兵部隊が請け負うことになったのだ。内外を問わず貿易商人に被害が頻発し、交易都市を自任するゴルヴィタ政庁としてももはや看過できる状況ではなかった。
傭兵部隊が野盗団討伐へと向かう前夜、ワイズ家の私邸でささやかな宴が催された。隊長のイザーク、それに副官であるディーデリック・スタウフェンを招いて、彼らの武運を願ったのだ。堅苦しくならないよう立食形式で応接間に並べられた、今や統領夫人であるリタの手料理とともに。
「やあ、さすがに旨い。この料理ではさすがのブライアン殿も陥落するというもの。まったくもって羨ましいかぎりよ」
口いっぱいに料理を頬張り、嚥下しながらイザークは「部下たちにも味わわせてやりたいところだが」と寂しげに眉を寄せた。
「よせよせ」と首を横に振っているのは副官の通称ディーである。
「あいつらは今頃酒場で騒ぎながらしこたま飲んでるか、娼館でよろしくやってるかのどちらかさ。構うことはない」
「それもそうだな」
あっさりと前言を翻し、イザークが次の料理へとかぶりつく。
ブライアンとリタは葡萄酒の注がれたグラスを片手に、彼らのすぐ近くで微笑を浮かべていた。
天鵞絨のソファーへ浅く腰掛け、大人たちのそんな光景を少し離れた位置から眺めていたシャーロットだったが、横から脇腹を突かれてしまう。ルーシーだ。
声を潜めて彼女が言う。
「こんなところにいないで、ほら。積極的に話しかけなさいよ」
「ん、いいの。統領と傭兵隊長だもん、いろいろと込み入った話もするだろうから邪魔しちゃよくないし」
本当はただ尻込みしているだけなのだが、物分かりがいいという体でごまかそうとする。だがルーシーはそんな未熟な演技に付き合ってはくれない。
「イザーク様へ御守りを渡すんじゃなかったの? 無事にゴルヴィタへ帰ってこられますようにって」
「ちょっとルーシー、声が大きいってば」
彼女が小声でしゃべるのをやめたのはわざとに違いなかった。
何にでも心の準備というものがある。じっくりゆっくり、腰を据え機を窺って行動しなければならないのだ。急いては事を仕損じる。
なのに当のイザークから、こちらへのこのこと歩み寄ってきてしまった。
「俺がどうした?」
追い討ちをかけるように、傍らのルーシーがまたも合図を寄越してくる。しかも今度は肘打ち、わりと強めのやつだ。普通に痛い。
つい顔をしかめてしまったシャーロットを心配してか、イザークがその巨躯を折り曲げて覗き込んできた。
「あらイザーク様、ごきげんよう。シャーロットが何か渡したいそうですよ」
立ち上がって優雅にお辞儀をしつつ、ぬけぬけとルーシーが言い放つ。
こいつ、と唇を噛んでももはやシャーロットに逃げ場はない。ルーシーの思惑通りになるのはちょっと癪ではあったが、腹を括るしかなさそうだった。
意を決して、ずっと膝の上にあった小さな木彫りの剣を握り締める。手の平にすっぽりと隠れるほどの大きさであり、シャーロット自身がイザークの無事を祈念して彫ったものだ。
随分と近い場所に立っているイザークの胸のあたりへ、ぐいっと木彫りの剣を押しつけた。これあげる、とだけ言い添えて。
首を傾げながらイザークが確認しようとする。その際にシャーロットの手と彼の大きな手とが触れ合った。弾かれたように彼女は身を引いてしまう。
隣からあからさまなため息が聞こえてきた気もするが、そんなことより自分の顔が赤くなっていないかどうかが心配で仕方なかった。
もしルーシーにからかわれたら「みんなが飲んでいるお酒にあてられたのよ」と言い張ろう、そう固く心に決めた。
そんなシャーロットの心の内など知る由もなく、イザークが彼女の頭を優しく撫でた。まるで幼い子供を相手にしているかのように。
「ありがとうな、お嬢。こいつがあれば千人力よ」
お礼の言葉を聞いたシャーロットだったが、途端に顔を横へと背けてむっつりと黙り込んでしまう。不機嫌そのものの仕草だ。またルーシーが大げさにため息をついている。
イザークを避けるようにしてシャーロットは料理卓へと向かった。
「あれ……あれ? 俺、何か変なことを言ったか?」
信頼する友人でもある傭兵隊長と娘のやりとりを見つめていたのだろう、すぐに父のブライアンが近づいてくる。
「すまない、娘が随分と無礼をした」
そう言ってイザークへと軽く頭を下げるも、向こうから「いいんですよ統領」と声がした。
「気にされる必要はありません。今のはそのバカが悪い」
朴念仁め、とあきれながらディーはグラスに残った赤い葡萄酒を飲み干す。
一方では少し酔いが回ってきたのだろうか、リタが手を叩きながらけらけらと笑っていた。こういう彼女の姿も普段ではなかなかお目にかかれない。
「戦場では百戦無敗を謳われるイザーク様も、年頃の女の子の前では形無しですわね。ちゃんと名前で呼んであげなきゃいけませんよ」
リタに図星を突かれたせいで、シャーロットは自分の顔が真っ赤に茹だっているのではないかとまたも心配する羽目となってしまう。
勇名を馳せる〈鉄拳〉イザークは彼女からの贈り物を手にしたまま狼狽し、ルーシーはと言えば母へと片目を瞑ってみせていた。よくやった、という意味なのだろうか。
これがシャーロット・ワイズにとって最後となる楽しい夜であった。




