嘘〈2〉
皇帝直属の精鋭として名高い近衛兵たちと戦うことを即座に受諾したニコラであったが、頭にはまだささやかな疑念があった。
「陛下、本当によいのですか? 私も手を抜いたりなど致しませぬ。御身を守る者たちが一人残らず命を落とす結果になるかと思います」
これを聞いた皇帝は高らかな笑い声を上げた。
「は、は、はは、はははは! さすがだ、さすがだぞスカリエ中佐! その嘘のない言葉こそ余が欲しておったものだ! 構わん、存分にやるがいい!」
許可は出た。これでニコラとしても願ったり叶ったりの状況となったのだ。
依然としてけたたましく笑いながら、皇帝ランフランコ二世が右腕を高く掲げる。それを合図として、重武装した兵士たちがその外見に反し素早く周囲へ集ってきた。その数ちょうど二十人、近衛兵たちだ。
教練所の死角へと散らばり気配を殺して潜んでいたのか、とニコラは素直に感心した。
「さすがに陛下をお守りする立場に選ばれただけはある」
彼らは一見しただけで通常の兵士たちとは大きく様相が異なっている。
真っ先に目を引くのが、全員が顔を隠すための仮面をつけていることだ。土の色合いに似せた、まったく個性を感じさせない仮面。素性を知られないようにするためであろう。
近衛兵たちは一斉に長剣を抜き、静かにニコラを取り囲む。まだ随分と距離はあるが、ゆっくりとその間隔を狭めてくる。
ニコラは棒立ちだった。相手を油断させようなどという意図も特にない。宮殿での武器の携帯は制限されており、今の彼が所持しているのは短剣のみだ。もちろん右腕はやせ細ったままでいまだ使い物にならず、左腕一本での戦闘となる。
これだけで手練れ二十人を相手にするのはさすがに厳しい。最後まで刃がもつかどうかも心許ないだろう。そう判断したニコラは、間合いを詰められて身動きが取れなくなる前に、まず敵から長剣を奪うことにした。
最初の標的は誰だっていい。どうせ死ぬのが遅いか早いかの違いだけだ。
すでに「門」は三つ開いていた。予備動作もなく、短剣を無造作に真正面へと投げつける。大股で十五歩分ほどの距離を超え、あっという間に刃は近衛兵の仮面を突き破り、眉間へと刺さる。確実に即死であろう。
間を空けず、ニコラは狭まる円状の網を破りにかかった。狙うは今しがたの死によってほつれた網目、その一点だ。
大地を蹴った彼の圧倒的な速さを目で追える者など、それこそ教え子である〈名無しの部隊〉の少年少女しか存在しない。最初の死体を踏みつけながら強引に長剣をもぎ取り、網の外へと飛び出すことに難なく成功した。
仮面のせいで近衛兵たちの表情はまったく見えないが、想定外の状況に動揺しているのは手に取るようにわかる。ここまで一糸乱れぬほどに統率のとれた動きも明らかに狂いが生じていた。
ここからはもう、長剣を手に入れて優位に立ったニコラによる、あまりに一方的な虐殺でしかなかった。首を刎ね飛ばされる者、心臓を一突きにされる者、胴を真っ二つにされる者、頭から鎧ごと一刀両断にされる者、両腕を斬り落とされた挙句に喉を突かれた者。
左腕だけでは力の加減も難しく、すぐに刃こぼれする長剣を何度も取り替える必要があった。すでに持ち主ではなくなった死者の手から。
驚くべきことに、誰一人として死に際にかすかなうめき声さえ上げようとしない。徹底して匿名であることが彼ら近衛兵の掟なのだろうか。
哀しいな、と戦いの最中でありながらニコラは眉をひそめる。仮面が外れた近衛兵も何人かいたのだが、その顔立ちは思っていたよりも若い。
この優秀な若者たちにも輝ける未来が待っていただろうに。
まだ八人、生き残っている者たちが勇敢にも戦う意欲を失わず、ニコラへと剣先を向けている。そんな彼らを無視してニコラは地面に剣を突き立てた。
「陛下、さすがにこれ以上は無益でしょう。彼ら程度の技量では到底私の相手など務まりません」
しかし皇帝の答えは非情であった。
「もう忘れたか。余は『存分にやれ』と言ったはずだ」
続けろ、という先刻と同じ言葉が返ってくる。
かすかに首を横に振り、ニコラはまた決着をつけるための作業へと戻っていく。できるだけ苦しまないように彼らを死なせてあげるつもりで。
瞬く間に死者が増え生者は減っていき、残すはただ一人。それでも近衛兵としての誇りゆえなのか、相手も真っ向から切り結んできた。もちろんニコラも礼儀として受ける。仮面の奥の、怯えた目を見つめながら。
最後の近衛兵にとどめを刺し、皇帝へと振り返る。
「これでご満足いただけたでしょうか」
対するランフランコ二世は「無論だ」と満足げな笑みを浮かべていた。
「素晴らしい成果であったわ。其方も知っておろう。余は才能に恵まれた画家による絵画を眺める時間が好きでな。いずれ目障りなレイランドやタリヤナを打破した暁には、大陸中の絵画を余の手元へ集めてみせるつもりよ」
いったい何の話を、との疑問をニコラに差し挟ませる隙を与えず、皇帝が重々しく告げる。
「ニコラ・スカリエ中佐。其方が率いる部隊、今は何の名も与えられず便宜的に〈名無しの部隊〉と称しているそうだな。これからは〈帝国最高の傑作たち〉と名乗るがいい。どんなに優れた絵画より荒々しく美しくあれ。混沌とした戦場に勝利と畏怖とをもたらす、そういう存在であれ。先ほどのつまらぬ嘘は不問に付す。息子同然に思うておる其方のこと、心底頼みにしているぞ」
教練所のいたるところに流れた赤い血が早くも黒く変色しつつある。
近衛兵として重用していたはずだった二十人の遺体を何ら気にかけることなく、皇帝はそのまま立ち去っていった。
彼らを哀れには感じるが、それでもニコラに埋葬までしてやる義理はない。
「力がないというのは辛いものだよ」
それだけを手向けとして彼もこの場を離れていく。
自らが発したこの言葉を、ニコラはもう一度強く実感することになる。エリオとピーノを独断でルカが追っていったとの報告を受けたがために。
そしてまた、部下にして教え子である少年少女たちへと彼は嘘をつくのだ。
次回より5章です。




