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憧れるには遠すぎた

 教官であるニコラが合図として指笛を鳴らすと同時に、対面のエリオはさっそく仕掛けてきた。何の小細工もなくただ馬鹿正直に。通常ならまずは相手の出方を窺いつつ、慎重に距離を詰めていく局面なのだが。

 訓練用の制服、その胸元をルカは無造作に掴まれた。どうにか引き剥がそうともがいてもまったく離れない。

 そしてエリオが力任せに横へ振ってくる。


「──くっ! こんの、怪力野郎が!」


 罵声を飛ばしてももう遅い。強引に体勢を崩され、浮いた左足の側からエリオが回りこむ。あっけなくルカは後ろをとられてしまった。

 審判役として目を配っていたニコラから「エリオとルカ、そこまで!」と鋭く制止がかかる。

 通称〈スカリエ学校〉として知られる十三人の少年少女たちは、訓練の一つとして素手での格闘戦に汗を流していた。ただし、珍しく今回の訓練には制約が多い。殴打は禁止とされ、あくまで対峙した相手の後ろをとることを主眼に置いた訓練であった。


「まず最初の決着だな。次は……」


 ニコラの声へ反応するように、一人だけ手空きのため審判役を務めているトスカが「ピーノとアマデオ、そこまで!」と高らかに告げた。どことなく嬉しそうな調子なのは、おそらくピーノが勝ちを収めたからなのだろう。

 ルカが視線を向けると、息も乱さず涼しい顔のピーノが、倒れたアマデオへ手を差し伸べているのが見えた。


「おっ、やるじゃねえかピーノ。あんだけ体格差があったってのに」


 首を鳴らしながらエリオが近づいていく。

 どうやら休むことなく幼い頃からの友人とやり合うつもりらしい。


「まあ、今日の格闘訓練はかなりぼくにとって有利な条件だし」


 口振りから察するに、素早さで圧倒的に上回るピーノが先手を取り続けてアマデオに完勝したのだろう。


「というか、エリオにとってもだね。力ずくで無理やり勝ったんじゃ、相手にとってあまり練習にならないよ」


 ねえルカ、と彼が同意を求めてきた。

 思わず「はっ、どうでもいいぜ」と吐き捨て、不貞腐れた態度をとってしまうルカだったが、実際にそれが本心だったわけではない。むしろ逆だ。

 エリオは不満そうに口を尖らせて反論する。


「そんなわけねえだろうが。世の中にゃ怪力自慢のやつなんて掃いて捨てるほどいるに決まってる。そんな連中と遭遇した時のための練習台として、おれみたいなのがちょうどいいんだって」


「はいはい。きみみたいな豪腕がうじゃうじゃいてたまるもんか」


「埒が明かねえな。こりゃどちらが正しいか、勝負で決するしかねえだろ」


 エリオとピーノ。両者ともに粗削りなのにも程があるが、それぞれ身体能力には頭抜けたものがあった。エリオには力、ピーノには素早さ。

 彼らと初めて会った日からもう三か月にもなろうとしている。エリオには腕をねじり上げられ、ピーノからは馬乗りになって散々に殴られ。どう考えても最悪の出会いの部類に違いない。

 いけ好かない、無分別な田舎者ども。面と向かって二人をそう呼び、激しい嫌悪と敵対心を剝き出しにしていたはずだったのに、いつしかルカからそういった負の感情が抜け落ちてしまった。

 強すぎるのだ、エリオとピーノは。他の少年少女たちはまだ彼らをそこまで高く評価していないようだが、ずっと二人を見つめ続けてきたルカにはわかる。


 最終選抜試験を思い出す。あの日、何の試験も受けることなく不合格とされたルカは結果を受け入れられず、怒りのままに当たり散らした。

 そんな彼へニコラが言い放った「君からは才能の煌めきを感じない」という言葉の意味を、三か月かけて嫌というほど理解してきたのだ。頭ではなく身体で。

 もちろんみじめさはある。見下していたはずの相手が、実は自分よりもずっと格上の存在なのだと認めざるを得なかったのだから。だがどちらかと言えば、より多くルカの心を占めていたのは憧れめいた感情だった。特にエリオへの。


 残念ながらこれ以降も彼ら二人とルカとの差はどんどん広がり続けた。特にザニアーリ牢獄での試練を終えてからというもの、たった一人ルカだけが置いてきぼりにされたも同然だった。エリオとピーノを含む他の十二人は、自身の内に潜む生命力とやらを引き出す術を身につけ、今やニコラとほぼ同格の存在になったと言っていい。

 才能に祝福された仲間たちの背中が、遠くはるか彼方に霞んでいく。それでもルカは追いたいと強く願った。エリオの隣に立っていられる自分であろうとした。

 どうにかして実力差を埋めるべく、彼は毒に手を出すしかなかったのだ。


 だが結果はどうだったか。

 焦るばかりで毒のみに頼った独断専行の挙句、最終的にはエリオによって助けられる羽目となった初任務から六日後のことだ。

 凶報をルカへともたらしたのは偶然の出来事であった。初任務での失態もあり、できるだけ一人でいたかった彼は普段使うことのない廊下をふらふらと歩いていた。空いている部屋で適当に訓練までの時間を潰したかったのだ。


 にもかかわらず、近くの部屋からかすかな人の気配がする。耳をすませば、潜めた声で会話が行われているようだった。

 誰だよ、とルカは内心で舌打ちしてやりたい気持ちになる。

 それでも好奇心が勝った。足音を消して近づいてみれば、部屋の中にいるのがニコラ教官とリュシアンであるのがわかった。だがその会話は口論と呼ぶべきもののようだ。

 どうやらリュシアンが一方的にニコラへと食って掛かっているらしい。


「なぜあなたは隠そうとするんだ。悲劇であろうとも、きちんと彼へ伝えてあげるべきではないのか」


「その結果、どうなると思う。彼はそれほど強い子ではない。君もわかっているだろう。心の痛みに耐えかねて、潰されてしまうのが目に見えている」


「そうはならないよう、私たちが彼を支えるつもりだ。真実を知りながら当人には教えることなく胸に秘めておくなど、騙しているも同然ではないか」


 しかしニコラには一切受け入れるつもりはなさそうだ。


「悪いがリュシアン、このことについては私に一任してもらおう。自分以外の家族が全員処刑されたなどと聞かされて、まともな判断力を保てる者などそうそういない。しばらく待つ」


「だがそれでは──」


「これ以上君と議論するつもりはないよ。いいね、これは決定事項だ」


 ルカにはいずれ私から伝える、とニコラが告げた。

 一瞬、ルカは混乱した。仲間たちの中に家族が全員処刑された者がいるらしい。不幸なことだ。どうやらそいつはルカという奴らしい。

 ルカ、ルカ、ルカ。ルカって誰だ。

 そこからしばらく彼の記憶はない。部屋を出てくるニコラやリュシアンと鉢合わせする前に、どうにかその場を離れたことだけはわかった。


 彼は数日間、情報を集めることに注力した。

 学び舎と訓練所と寮を兼ねた建物へ出入りする役人や業者、彼らが交わしていた何気ない会話から状況を掴むことはできた。ニコラの執務室にも忍び込んでそれらしき文書がないか漁ってみたが、そちらは空振りに終わっている。

 軍へ武器を納入しているパルミエリ商会、その現当主であるシド・パルミエリにレイランド王国への内通の嫌疑がかけられたらしい。当然のごとく皇帝の怒りを買い、真偽もろくに確かめることなく形ばかりの裁判を経て、即座に処刑されたようだ。そして残された家族も全員が死罪となり、シドの後を追わされた。


 一代で武器商人として頭角を現した祖父、そして跡を継いで着実に商売の規模を拡大してきた二代目の父シド。

 パルミエリ家に生を受けたルカには二人の兄がいた。いずれも家業を手伝っており、ゆくゆくはどちらかが当主となってさらに発展させていくことだろう。そのように考えていた少年ルカは、帝国軍人となって身を立てる道を望んだ。

 貴族を凌ぐほどの裕福さであったため、彼は何一つ不自由なく育った。常に言いなりになる取り巻き連中を従え、惜しげもなく金をばらまき、逆らおうとする同年代の人間には容赦しなかった。それがルカにおける幼年期のすべてだ。

 父も、母も、兄たちも、もはや彼の家族はいなくなってしまった。


 すべては脆くも崩れ去った。あっけなさすぎる。これまでの記憶の数々が今はただ、儚い幻のごとくに思えてしまう。さながら起きたときにはもう忘れてしまっている夢に似ていた。

 きっと家族は訳のわからないまま虫けらのように扱われ、悲鳴とともに死んでいったはずだ。思い返せば、ルカ自身が毒殺した兵士たちも虫けらのような死に様だった。

 怖い、とルカは思った。ニコラや十二人の仲間たちならいざ知らず、自分のような半端者がいつか戦場に出たところで、無名の敵に致命傷を負わされ、この世のすべてを呪いつつのたうち回り、なのに誰からも気づいてもらえず死んでいくだけなのではないか。

 そう、それこそ虫けらのように。血と汗と泥、もしかしたら糞尿にも塗れて。


 憧れた背中へ少しでも追いつこうと密かに願っていた少年は、あまりの遠さと行く手の険しさとを思い知らされたのだ。そして家族を襲った理不尽な死を悲しむより、待ち受けている無意味な死に怯えた。足を止めてしまうには充分すぎる理由だろう。

 ならば、せめて死に方くらいは自分で選びたかった。

 生きた証を、他の誰かへ痕跡を刻み込むような死に方を。

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