帰り道なんてどこにもない
案の定と言うべきなのだろう。
ピーノたち三人が具だくさんのスープを平らげても、手頃な岩に腰を下ろしたイザークやディーが動こうとする気配はない。彼らはただ、疲れ果てた様子の子供たちを見兼ねて食事を振るまっただけなのだ。そうであるならばピーノたちにも積極的に敵対する理由など存在しなかった。
ごちそうさま、と礼を述べてからピーノは少しだけ付け加える。
「お母さんがよく作ってくれた料理に似た味つけだった」
慎ましく暮らしていた羊飼いの一家にとって、最も優先されたのは腹を満たす食事であることだ。塩と水だけでじっくりと野菜を煮込んだ、スープ仕立ての料理は食卓の定番であった。
母の料理と、今しがたの料理。優劣などなくどちらも美味しい。
「そいつは光栄だ」
ぎこちなく笑みらしきものを浮かべているディー。そんな彼の肩へ軽く手を置き、イザークが「食事は何より大切だからな」と言う。
「もうはるか昔の話だ。おまえたちよりはもう少し年齢がいったくらいの時分に、俺とディーはとある山中で迷って、どうすればいいかわからず困り果てたことがあった。そんなときに偶然出会ったのが〈シヤマの民〉だったのさ」
ピーノだけでなく、エリオとハナの視線もイザークへと集まる。
「あちらにも俺たちの言葉を理解できる人がいてな、ユエさんというそれはもう綺麗な女性だった。今でもはっきりと顔を思い出せるくらいの。あの人が他の面々に掛け合い、腹を空かした俺たちに食事を提供してくれたんだよ。血気盛んで、盗賊と思われても仕方ないようなむさ苦しい若造にだぜ」
「あの人たちに出会えてなければ、俺もイザークも獣の餌か山の肥やしになっていただろうなあ」
ディーも懐かしそうに相槌を打つ。
しかし、まさかこんな場所で再びユエの名を耳にするとは。
ちらりとハナの様子を窺うが、彼女の表情は真剣そのものだった。若かりし日の長老ユエの話を聞ける機会などそうそう巡ってくるものではない。
イザークの話は続く。
「残念ながらそれ以来、ユエさんや〈シヤマの民〉の方たちへお目にかかることはなかった。俺たちも結構各地を旅してたんだがねえ」
「だからこそ、あの日あの時の偶然の出会いが素晴らしい宝物として、老いた今でも心にある、とも言えるだろ」
「ディー……おまえは素面でよくそんな台詞を吐けるよな」
「うるさい、混ぜっ返すな」
古い付き合いの相棒をからかってから、イザークはハナへ穏やかに語りかける。
「ユエさん、今でも元気かい? 厳しい旅暮らしであっても、ご存命ならきっと素敵な年の重ね方をされているんじゃないかな」
さすがにハナも堪え切れなかった。
離れた場所にいる男たち全員が振り向いてしまうほど、全身を振る絞るような声で泣きだしたのだ。
イザークとディーの表情も瞬時に険しいものへと変わる。
「──いったい何があった」
問い質してくるディーへ、ハナに代わってエリオが答えた。
「殺されたってよ。ユエ婆さんも、族長だったハナの父さんも、他のみんなも。みんなみんな、ハナ以外の〈シヤマの民〉はウルス帝国に、皇帝の気まぐれによって殺された。あの野郎、年齢差もお構いなしにハナを花嫁に迎えようとしたらしいぜ」
努めて平坦な物言いであろうとしていたが、さすがのエリオもわずかな声の震えを押し殺し切れない。
「……何てことだ」
呆然とイザークが呻く。
ディーは黙祷を捧げるかのように両目を固く瞑っていたが、しばらくしてどうにか気を取り直したらしい。
「やはり、皇帝ランフランコ二世の行動が危険極まりないという情報は正しいようだな。敵である大同盟側にとっても、仕える帝国側にとっても。即位当初より暴君と紙一重ではあったが、それでも以前はもっと明晰な男だった。今はやつの思考の軌跡が読めないという専らの噂だ」
イザークも大きく頷いた。
「深掘りするつもりはなかったが、最初の切羽詰まった雰囲気でおまえたちが帝国から逃げてきたのであろうことは察しがついていたよ。まさかそういった事情だったとはな。その子を連れて、よくぞここまで護り抜いたもんだ」
泣き止みかけているハナ、そして傍らのエリオとピーノを見つめながら労りの言葉をかけてくる。それから彼は今後を訊ねてきた。
「だが、この先どうする。行く当てはあるのか?」
「とりあえず故郷に帰るつもりだよ」
もはや警戒心もなくピーノが返事をする。
「大丈夫なのか?」
「たぶんね。ぼくたちが生まれ育った土地は、どうやらとんでもなく辺境の地らしくて。あそこなら普通に暮らしてても見つからないんじゃないかな」
ほう、と応じたディーが周囲を見回す。
「ここから近いのか? 途中まででも一緒についてくればいい」
「うーん、ドミテロ山脈だからかなり遠いよ。でも景色が雄大で美しくて、見飽きなくて。本当にいいところなんだ」
だがどうしたわけか、ピーノの発言を聞いたイザークとディーが揃って血相を変えてしまう。
息が吹きかからんばかりの近さへイザークが詰め寄ってきた。
「ドミテロのどのあたりだ! 正確な場所を言え!」
「え、何? どうしたの」
いいから早く、と返答を急かしてくるのはディーだ。
「山脈の真ん中にある大渓谷よりは東。でも戦場になったカンナバ盆地からはそこそこ離れてる。中腹になるのかな、麓からだと結構高さはあるからほとんど人も住んでいない土地だよ」
答えながら、ピーノは徐々に嫌な予感に蝕まれていた。
まるでこの大陸にあるすべてのものが既知であるかのように、余裕を漂わせて落ち着き払っていたはずの大人二人が、ここに至って焦燥を隠そうともしていなかったからだ。
「おい、イザーク……」
「わかってる。きちんと伝えてあげにゃならん」
二度ほど静かに呼吸をし、イザークが意を決して切りだした。
「結果から言おう。おまえたちの故郷はもうない。ドミテロ山脈、特に東部一帯が広い範囲に渡ってずっと燃え続けている。百年に一度あるかないかの大規模な山火事さ。ただし原因は人為的なものだ」
心の準備などまったくできていなかった。
語られた内容の衝撃に、ピーノの思考はついていけず声も出せない。
「カンナバ盆地での会戦に敗れ、ウルス帝国軍は総崩れとなった。敗走する帝国軍はドミテロ山脈越えの険しい道を選んで逃げた。それを大同盟側の主力であったレイランド王国軍が追う。ここまではいい。だが、どちらかが山に火を放ったんだ。逃げるために必死だった帝国軍か、追い切れず腹立ちまぎれに王国軍がやったのか。真相は明らかになっていないし、双方が相手の仕業と主張するばかりだ。恐らく闇の中となるだろう」
山に暮らす人々は誰も逃げられなかったはずだ、と彼は言う。
「豊かだった木々や他の何もかもを飲み込んで、今も炎は勢いを弱めていない。すべてを焼き尽くして消えるのを待つしかないんだ」
厳しい表情を崩さず、イザークが話を締めくくる。
ピーノは生まれて初めて、心の折れる音を聞いた気がした。
帰る家を失う。あまりに突然すぎて、すがるべきよすがを取り上げられ、宙ぶらりんに投げ出されたような心持ちであった。
エリオがぽつりと呟く。
「なるほど。リュシアンが言ってた、ニコラの隠し事ってのはそれか。これでおれたちもハナと一緒の立場になっちまったな」
独りぼっちの集まりだ、と自嘲した。
どうにかしないといけない、そんなのはピーノにだってわかっている。だけど体が言うことを聞かず、動こうとしてくれないのだ。
座りこんだまま立ち上がることさえできず、ここで静かに朽ち果てていくのが自分に似合いの行く末に思えて仕方なかった。
そんな空気を打ち破ったのはイザークの雄叫びだった。
「おおお! 決めたぞ、小僧ども!」
勢いよく立ち上がった彼は力強く拳を握りしめている。
「おまえたち三人、まとめて俺が面倒を見る。帝国であろうと誰であろうと、何人たりとも手出しはさせん!」
ピーノは呆気にとられてしまった。彼だけでなく、エリオやハナもだ。
続いてディーも腰を上げ、ピーノたちに向かって苦笑いを浮かべて言った。
「イザークは昔っからこういう男でな。言いだしたら聞く耳なんざ持たんよ。小僧ども、あきらめろ。あきらめておとなしくこいつの厄介になれ」
◇
結局、この日からピーノたち三人はイザークの庇護の下、一年間ほどの日々を共に過ごした。時にはヌザミ湖畔の別荘で、時には都市ゴルヴィタの商館で。
誰も傷つける必要のない、静かで穏やかな満ち足りた時間がずっと続いていくような気さえしていた、そんな日々だった。
とある男より、ウルス帝国皇帝ランフランコ二世の暗殺が依頼されるまでは。
4章はここまで。




