ルカとピーノ
無言のまま、エリオはじっと自分の両手を見つめている。
まるで今やったことを信じられないでいるかのように。
猛々しい嵐が吹き荒れた後、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。そんな錯覚にピーノは襲われた。
旅の難所はこの先にまだいくつも待ち受けており、エリオの力は必要不可欠だ。昨日までの仲間を自ら殺めてしまった苦悩を引きずらせるわけにはいかない、とピーノの思考はすぐに現状への対処を優先させる。一刻も早くこの場所から彼を離さなければ。
加えて、ルカの遺体をこのまま野ざらしにしておく気にもなれなかった。
「エリオ、悪いんだけどハナと二人で先に行ってて。ぼくもすぐに追いつくから」
精気のない声でエリオが問いかけてくる。
「おまえ、どうするんだ」
「あいつを埋葬していくよ」
一応は仲間だったからね、と感情を込めずに告げた。
「でも、心のどこかでいつかこうなる気はしていたんだと思う。最初の夜に揉めたときから、なのかもしれない」
「あったっけな、そんなことも」
あのときの出来事がもう随分と昔の記憶みたいに思えてしまう。それはエリオも同じらしかった。
「気に病まないでいいんだよ、エリオ。きみはただ、ぼくの役回りを肩代わりしただけなんだから。さあ、早く行った行った」
動きの鈍いエリオとハナを急き立てる。ピーノに追い出されるようにして、二人は足取り重くこの場を立ち去った。
その姿を見送ったピーノは長く静かに息を吐く。もう全身に毒が回って死を迎えたであろうルカを埋葬するのは、たとえ彼自身の卑劣さが招いた結果であろうとも、恐ろしく気が滅入る行為であるのは間違いない。
だが、彼の亡骸に近づいていったピーノの視界の片隅で何かが動いた。もう一度、よく目を凝らしてピーノは確かめてみる。
ルカの指だ。ぴくり、ぴくりと彼の体がわずかに痙攣していた。
息があったのか、と慌ててすぐそばへ屈みこむ。
いずれにしたって助けることはできない。ナイフの刃は胸を貫通しており尋常な失血ではなく、辺り一帯を赤く染めだしていたからだ。
どうやら彼は毒では死ねなかったらしい。
調合に失敗でもしたのだろうか。そんな疑問が頭をよぎるが、答えを知ったところでもはや結果を動かせはしない。
ピーノにできるのは看取ることか、とどめを刺してやることくらいのものだ。
「……赤ちびか」
まだ意識を失っていなかったルカの口から、か細い呟きが漏れる。
顔を寄せ、ピーノは彼の耳元に唇を近づけた。
「悪かったね、ぼくで」
最初の夜の一件もある。当然ルカは自分のことを相当に嫌っているはず、それがピーノの認識だった。
だからこそ、続く彼の「いや……悪くねえよ……」という言葉に驚きを隠せない。そして反射的に彼の手を握り締めていた。
「何でハナを狙ったりしたんだ。あんなの、エリオをひどく怒らせてしまうだけなのに。きみだって死なずにすんだはずなのに」
ピーノの問いにルカは返事をしなかった。ただ穏やかな眼差しのまま、ピーノの手をほんの少しだけ握り返してくる。精いっぱいの力なのかもしれない。
「……悪くねえ……」
もう一度、同じ言葉をルカが繰り返した。
それっきり、彼は動かなくなってしまった。事切れたのだ。
思い返せばこれまでにピーノは何人もの人間をその手にかけてきた。ザニアーリ牢獄の死刑囚たち、ベルモンド少将の暗殺、そして再びザニアーリ牢獄の看守たち。
最初はひどく抵抗があった事柄でも、次第に心は慣れてしまうものだ。麻痺していくと言い換えたっていい。ザニアーリ牢獄の嫌味な老看守の命など、ピーノにとっては吹けば飛ぶような軽さでしかなかった。
けれどもルカの死はまるで意味合いが異なった。身勝手なのは百も承知で、それでもかつての仲間を殺してしまったという事実は骨身にこたえる。これをエリオの罪だとするならば、ピーノの罪も同然なのだ。
セレーネが知ったらどう反応するのかな、とピーノは先ほど別れを告げた友人の顔をぼんやりと思い浮かべる。誰かがいなくなるのを想像するだけで胸を刺されるような痛みを感じる、彼女はそう言って泣いていたから。
きっとピーノもエリオも許してはもらえないだろう。
既に亡きノルベルトに連れられエリオとともに旅立った日から思えば、随分と遠く隔たった場所へとやってきていた。
昨日と今日とではまったく別の日であり、明日だってそうだ。そして明日が今日よりいい日になるかどうかなんて誰にもわからない。少なくとも今のピーノに明日への期待感などは微塵もなかった。
時の濁流に呑まれて、この先いったいどこまで運ばれていくのだろうか。
物思いに沈んでいきそうな自分に気づき、どうにか振り払ってしまおうと頭を振る。その拍子に不安定な岩場の上で体が揺れるも、両足で踏ん張り体勢を整える。
ルカを埋葬するべく、まず突き刺さったままのナイフを引き抜いた。温かさが失われていく彼の肉体からはほとんど血も流れださない。
何気なくピーノはナイフの刃を見つめる。見つめながら、不意に彼はある可能性へ思い当たった。
もしかしてルカは毒の調合に失敗したのではなく、初めから使っていなかったのではないか。
だとしたら何のために、と自問する。
その答えは考えるよりも早く、ピーノの口をついて出た。
「まさか、死のうとしていたのか? エリオかぼくの手によって」
しかし穏やかなルカの死に顔はもう何も教えてはくれない。
咄嗟にナイフで己の指を刺し、小さな傷を作った。不用意な行動であるのはピーノ自身も理解しているが、それでも毒の有無を確かめずにはいられなかったのだ。
しばらく待っても傷口に特段の変化もなく、わずかに血が滲んだだけだった。
やはりナイフに毒は塗られていない。
思わずピーノは天を仰いで嘆息した。
「──身勝手すぎるんだよ、きみは」
ルカへはもう永遠に届かないとわかっていてなお、詰るような言葉を吐かせた感情が憤りだったのか哀れみだったのか、あるいはない交ぜになっていたのか。当のピーノにもよくわからなかった。




