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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
4章 さよなら、さよなら、たくさんのさよなら
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五百数える

 まあいいさ、と声に冷淡さをにじませてエリオが言う。


「図らずもピーノの希望通り、別れを告げる機会が巡ってきたってわけだ。仲間だったよしみだ、五百数える間だけなら待ってやるよ」


 それっきり彼は口を噤んでしまう。もう話すことなど何もない、とばかりに。


「あーっ、くそっ」


 くしゃりと髪をかき上げ、珍しくユーディットが悪態をついた。


「ニコラ先生の大バカ野郎め、結局あんたのせいじゃないか。最初から負けるのがわかってる賭けなのを黙っていやがったな」


 傍らではセレーネが俯いて黙りこむ一方、トスカの表情からは先ほどまでの動揺の色がすでに消えている。


「そうねユーディット。わたしたちによる説得が上手くいかないのはあの人にも織り込み済みだったはず。ピーノたちとの戦闘を禁じた理由については憶測でしかないけど、ここで決定的に対立してしまうのを避けたかったんだろうと思う。でもあの人に見通せているのはたぶんそこまで」


 ねえピーノ、と彼女が穏やかに語りかけてきた。


「ここへ来るまで、わたしは戦闘行動に訴えてでもあなたを連れ戻すつもりでいた。刃を交えるな、という命令を直接受けたのはセレーネとユーディットだけ。そんなの、素直に従うつもりなんてさらさらなかった」


「ぼくは、できることならきみたちと戦いたくない」


 絞りだすようにピーノが答える。

「わたしだってそうだよ」とトスカも苦笑いで応じた。


「でも、事情をある程度知ってその必要はなくなった。戦って力ずくで引き留めようとしたって、きっとあなたたちを思い止まらせることはできないのだから。いつにないエリオの頑なさだって理解はできる」


 ちらりと視線をエリオへと向けたが、彼は目を合わせようともしない。

 けれどもトスカに気にした様子はまったくなさそうだった。


「いったんはここでさよならだよ、ピーノ。けれどもこれが最後じゃない、わたしはそう信じてる。だって、約束した海へもまだ一緒に行ってないんだし」


 とびっきりの笑顔を浮かべて彼女は言った。

 短いようにも長いようにも思われたこの一年半、いつだってトスカはピーノに対して好意的であった。どちらかといえば物静かな性格にもかかわらず、ピーノへ向けてくる感情だけは常に熱を帯びていた。

 そんな彼女へ話さなければいけないことはたくさんあったはずだ。にもかかわらず「──ごめん」とだけしか言葉をかけてあげられなかったピーノに代わって、ようやくエリオが口を挟む。


「リュシアンのやつに言わせれば『次に会う時は殺し合い』だそうだぜ」


 彼らしくもない辛辣な物言いに、さすがにピーノもたしなめなければと振り返る。ただそれよりも早く「ふざけないで!」とセレーネの怒号が響いた。

 しかし彼女の声の調子は一変する。


「トスカ、ユーディット……。なんで、なんであなたたちはそう簡単に受け入れてしまえるの……?」


 肩を震わせだしたセレーネは涙目であった。


「いやよ。私は、絶対にいやよ。苦楽を共にした仲間のうち、誰か一人だけでも欠けるなんて想像することさえ辛かったのに。途端に呼吸が苦しくなって、胸を刺されるような痛みがあるんですもの」


 あまりに意外なセレーネの告白に、思わずピーノはたじろいでしまう。出会ったときの高慢そのものの態度からは想像もつかない。

 とうとう彼女は泣きじゃくりだし、左右のユーディットとトスカが心配そうに体を寄せて肩に触れる。

 ややあって落ち着きを取り戻したセレーネが、途切れ途切れに話しだした。


「私は名門とされるピストレッロ家の生まれではあるけれど、母は平民の出の妾だった。当主たる父から愛情を受けていたのもほんのひと時のこと、まるで気まぐれのお遊びのよう。ピストレッロ家の邸宅の片隅で暮らすよう命じられた私たち母子に与えられたのは、周囲からの侮蔑と嘲笑。幸せな思い出などというものには縁遠い恥辱の日々。しばらくして母は自死を選んだのよ」


 ピーノにとって初めて耳にする、セレーネの辛い過去だった。

 既に知っていたであろう二人の友人、ユーディットもトスカも彼女のそばへ寄り添ったまま離れない。


「だから、私は強くなろうと決めました。誰にも心を許さず、ピストレッロ家を妾腹の娘の前に跪かせてやろう、そう誓ったの。強く、ひたすら強く。私にとって自分の居場所とは、力を示すことで勝ち取るものに他ならなかった」


 淡々とした語り口ではあったが、そこには幼い頃の彼女に刻まれてしまった仄暗い感情が見え隠れしていた。


「あのスカリエ将軍の息子が新しい部隊を創設すると聞かされたときだって、『私が全員を従えてやる』くらいにしか考えていませんでした。旧知の仲だったトスカがいると知っても、よ。それなのに、いざ〈スカリエ学校〉の一員となってみてとても戸惑ったの。当時の私にはその心情がどこから来るものなのかがまったく理解できなかった。もちろん今ならわかります。やっと自分の居場所を見つけられたのだ、と」


 セレーネは右手を胸に当て、記憶を反芻しているかのようだ。


「敵意に対抗する心の鎧を身に纏わなくてもいい。それどころか肩の力を抜いて冗談を言ったっていい。お互い競い合って高め合い、そして助け合う。これほど素敵な場所にはもう二度と巡りあえないだろう、私は次第にそう思うようになっていきました。トスカ、ユーディット、ヴィオレッタと女の子同士でおしゃべりする、寝る前の時間は本当に楽しかった。男の子という存在はこれほどがさつなのかと幾度となく驚かされたけれど、それだって楽しかったの。私はみんなが揃ってわいわいとしているのが好き。大好きなのよ。リュシアンにダンテ、アマデオ、フィリッポ、カロージェロ、オスカルにルカ、そしてあなたたち」


 潤んだ目のセレーネがピーノとエリオを見つめてくる。

 こぼれた涙を拭おうともせず、懇願するように彼女は言った。


「いかないで。お願い、いかないでよ……」


 ピーノは大きく揺さぶられていた。心の内をさらけ出した彼女の言葉と、それに応えられない申し訳なさとによって。

 だが返答したのは彼ではなかった。


「──五百。時間だ、ピーノ」


 セレーネの願いを一顧だにせず、無情にもエリオが告げた。

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