裏切り者
気怠そうに出口へとやってくる二人の少年の姿を認め、待ち構えていた獄吏の老人は目を細めた。
「ほう、てっきりこちらから呼びに行かにゃならんと思っておったが」
殊勝な心がけよ、と黒ずんだ歯茎を見せて笑う。
「あの〈シヤマの民〉とかいう一族の、スカリエ中佐と同じ肌の色をした女。中佐から聞くところによると、おまえたちの親しい友人なのだろう? 連れて逃げだそうとは考えなかったのか? んん?」
「爺さん、からかうのはよしてくれ。今やおれたちも皇帝陛下に忠実なウルス帝国の兵士だ。好き勝手にそんなことをするはずねえだろ。友人だったからこそ、最後の挨拶を済ませたまでのことさ」
立ち止まり、顔色ひとつ変えずにエリオが受け答える。随分と嘘が上手くなったもんだね、と呆れながら傍らでピーノも黙って頷いた。
「ふん、わかっとるならいい。このまま殺されるかどうかはあの女の選択次第だが、よしんば生き延びたところで、おまえたちのような下級兵士風情に会える存在ではなくなるからな」
先ほどの「陛下も物好きな」という老人の独り言と、繋がりそうで繋がらない。
堪え切れずピーノが問いかけてしまう。
「ねえ、それっていったいどういう意味? 彼女が投獄されている理由だってぼくらはまだ何も聞かされていないんだ」
「おまえたちごときがそれを知ってどうする」
嘲るような老人の物言いに、ピーノは一瞬頭に血が上りかけた。
だが肩を竦めたエリオが「違いねえや」と軽くいなしたことで、どうにか冷静さを取り戻す。
促すようにピーノの臀部を叩いたエリオは再び大股で歩きだした。
老人を振り返りもせずに彼が言う。
「用事はすんだ。爺さん、ありがとうな」
「もう二度と来るんじゃないぞ」
最後まで悪態同然の言葉を吐く老人へ、ピーノも背を向けたまま手だけ振ってやる。今晩またお邪魔するけどね、と内心で呟きながら。
ザニアーリ牢獄よりいくらか離れてから、エリオも似たようなことを話しかけてきた。平然としてはいたが、実際は彼も腹に据えかねていたのだろう。
「あの手の爺さんは長生きするもんだけどな」
今夜も牢獄で仕事ならば残念だがそうはならない、と言外に告げていた。
◇
とりあえずはハナを自分たちの故郷へ連れて帰ろう。それがピーノとエリオの出した結論だった。流浪する〈シヤマの民〉の居所を探るのには時間がかかる。
互いの考えていることは目を見ればわかったので、言葉を重ねる必要もない。意思を統一した二人は、彼女に「夜まで待って、必ず迎えに来るから」とだけ伝えてすぐ牢獄を後にしたのだ。
一年半前、ドミテロ山脈から旧都アローザまでは二十日間もかかった。獄中で暴れてはいたが肉体的には衰弱気味であるハナを連れての道程だ、今回も同じくらいかそれ以上の長旅となるだろう。
なのでまず、彼らには準備が必要だった。
幸い、〈スカリエ学校〉改め〈名無しの部隊〉の寮にはだいたいの物が揃っている。ハナの体格に合いそうな靴や服も難なく手に入れることができた。
もはや専属の調理人を差し置いて厨房の主となっているアマデオの目を盗み、五日分程度の食料も運び出した。以降の分はその都度調達すればいい。これらをそれぞれの寝床の下に隠して何食わぬ顔で深夜を待つ。
夕食時には食堂で再びニコラと顔を合わせた。一瞬、ピーノと視線が交錯するも、特に彼から話しかけてきたりはしなかった。
ピーノとしてもニコラへ事情を問い質したい気持ちはあるのだが、きっと答えてはくれないだろうとわかっている。彼が「ザニアーリ牢獄へ行け」とだけ言ってくれたのは、それ以上を伝えるつもりがなかったからだ。
食事と入浴を終えてしばらくすると、そろそろ就寝する頃合いである。ここに来てピーノはいくばくかの寂しさを感じだしていた。
もちろんハナを連れて逃げだすという決意にはいささかの揺るぎもない。だがそれは同時に、仲間たちと別れることを意味してもいた。共に笑い、苦しみ、鎬を削り、ときには衝突し、そして助け合ってきたかけがえのない仲間たち。
エリオと二人きりになったのを見計らい、ピーノは彼に訊ねてみた。
「ねえ、みんなにお別れの挨拶をするわけにはいかないのかな」
きっとわかってもらえると思うんだけど、とピーノが言う。
しかしエリオは静かに首を横に振った。
「なあピーノ。おれたちがやろうとしているのは、他のやつらからしてみればただの身勝手な行為なんだよ。はっきり言えば、おれたちは今から裏切り者になるんだ」
裏切り者。その聞き慣れない響きがピーノの胸を刺す。
「ハナを連れ出すとき、看守の何人かはおれたちの手によって命を落とすことになるだろう。明日の朝、ここネラは大騒ぎさ。牢獄を襲撃して、ハナを脱獄させた犯人がおれたちだってのはすぐにわかるしな。そうなりゃニコラ先生だって無事ではすまない。ひょっとしたら重い罪に問われる可能性だってある。ただ、おそらくあの人はそこまで承知の上でおれたちを行かせてくれたんだと思う」
ピーノよりもずっと、エリオは広く深く考えを巡らせていたのだ。その上でなお、必ずハナを助けると固く強く決心していたのだ。
己の浅はかさを恥じてピーノは俯いた。
そんな彼へエリオは穏やかに言う。
「おれも淋しいよ。みんないいやつらだったからな、本当に」
◇
暗い部屋のあちらこちらから寝息が聞こえている。
そんな中で二人の人影がむっくりと体を起こした。ピーノとエリオだ。
彼らの動きに逡巡はなく、小分けにして隠していた荷物を手際よくまとめていく。そして足音を立てることなく部屋を抜け出した。
二人とも振り返りはしない。
真っ暗な館内を静かに進み、玄関の扉も慎重すぎるほどにゆっくりと開いていった。一人分の隙間へ二人が続いて体を滑り込ませ、再び閉じる。
これでもう、新都ネラでの彼らの時間は終わったのだ。目映いほどの輝きと、汚泥の中でもがくような苦しさとが分かちがたく混在した日々。
互いに目配せをし合い、一路ザニアーリ牢獄へ駆けだそうとしたそのとき。三階建ての建物の屋根から声がした。
「行くのか」
声の主はそのまま飛び降り、何事もなかったかのように着地する。最後の瞬間にだけ、「門」を開いたのがピーノにもわかった。こんな芸当ができるのはニコラによって鍛え上げられた〈名無しの部隊〉といえどごくわずかしかいない。
やはりというべきか、近づいてきたのはリュシアン・ペールだった。




