卒業
彼方に灰色の宮殿が見える。
「おー、今あたしは皇帝陛下サマの住むお城を見下ろしているってわけか。こいつはなかなか気持ちいいもんだねー」
ヴィオレッタの問題発言に、非難がましい目を向ける者もにやりと笑う者もいたが、表立っては誰も口にしなかった。ニコラが「まあ、さすがにここなら密告もないだろう」と言ったのみだ。
ひとしきり景色を眺めたら、全員で大きな輪となって腰を下ろす。
籐の籠から食べ物と飲み物を取りだし、平らな地面へずらりと並べた。果物だけはこの場で切り分けるように皮もついたままだが、それ以外にはアマデオの料理への知識と技術と愛がふんだんに込められている。
みんなが大好きな肉を例にとっても様々な種類が用意されていた。腸詰にして燻製したもの、塩漬けにして乾燥させたもの、香草と塩胡椒で焼いたもの、肉や内臓をほろほろになるまで煮込んでから冷やして固めたもの。
それらを早朝から焼き上げた、これまたいろいろな種類のパンとともにいただく。まったくもって壮観だ。
「おお……さすがはアマデオじゃあ……」
「やー、おれはもうアマデオと一生を共にしたいね」
カロージェロは感極まり、フィリッポは相変わらずの軽口を叩いていた。
ちらりとユーディットがフィリッポへと視線を遣る。
不用意な褒め言葉のせいで、彼はきっと明日の訓練でユーディットからこてんぱんにやられてしまうことだろう。彼女は強い。
「さあ、まずは我らがアマデオを称えよう。この大きな体から想像もつかないほどの丁寧な仕事ぶりには畏敬の念を抱くしかないね」
珍しくおどけたような調子のニコラの呼びかけに全員が応え、銘々に感謝の言葉を口にする。中にはセス教やタリヤナ教の司祭のごとく拝んでいる者もいた。
そして「いただきます」と声に出せば後はもう戦場さながらだ。
「ちょっと! エリオたちは初っ端からがっつきすぎなんだよ!」
あまりの食べ荒らし方を見かねたピーノが強い調子で非難するも、エリオやカロージェロは聞く耳を持たない。
「早い者勝ちだぜえ」
「そうそう、戦はすでに始まっとるんじゃ」
ただ、いつもであれば誰よりも大飯食らいのアマデオが、にこにことしながらまだ何にも手をつけていない。
彼の隣に座るユーディットが「食べないの?」と、わずかに心配しているような気配の声で訊ねている。
いやあ、とアマデオは決まりが悪そうに頭を掻く。
「美味しそうにみんなが食べてくれているのを見ていると、何だかとっても幸せな気分になってねえ」
そう、とだけ返事したユーディットは、いつもは鋭い目を緩ませて柔らかく微笑んでいた。彼女ともすでに一年半近くの付き合いではあるが、そんな表情を浮かべている場面にいまだかつてピーノは出くわしたことがない。
突然、セレーネが堪らずといった様子で叫んだ。
「ユーディットが可愛すぎる!」
すぐにヴィオレッタも「わかるぅ!」と同調した。
「あの笑顔だけでぐいぐい酒も進むってもんよ!」
しかし勢いの余り口を滑らせたような彼女の発言は、今度こそニコラから聞き咎められてしまう。
「待ちなさい。いったいどういうことだ、ヴィオレッタ? 寮では葡萄酒などの類は一切出していなかったはずだが」
「あの、その、えへへ」
どうにか愛想笑いで詰問を逃れようとするヴィオレッタの姿に、ピーノの隣でトスカが渋面を作った。
「同じ笑顔なのに、ユーディットとの落差がひどすぎる」
「うん、ひどいね……」
ピーノとしても同意せざるを得ない。当のユーディットはといえば、相手にしたら負けであるかのごとく無反応を貫いている。
とはいえ、ヴィオレッタが外出したときにこっそり葡萄酒の瓶を買っていたのは、〈スカリエ学校〉における暗黙の了解みたいなものだ。
いや別に隠してもいなかったか、とピーノは思い返す。オスカルを付き合わせるのはまあ仕方ないとして、あのルカだって強引に飲まされていたりもしたのだから。
ニコラがやれやれと言わんばかりに大きく息をつく。
「まったく、授業にも支障が出ていなかったから見て見ぬ振りをしてあげていたというのに、ここへ来てしくじるとは。どうせならちゃんと隠し通しなさい」
「え、じゃあ先生は前から気づいてたの?」
「当たり前だ」
「うっそ……。あたし、全然顔に出ない方だと思うんだけどな」
どうしてばれたのだろう、とでも言いたげなヴィオレッタに、ピーノは「だからだよ」と突っこんでやりたい気持ちを抑えるので精いっぱいだった。わかりやすすぎるのだ、彼女は。
ここでニコラは居住まいを正した。自然とみんなの視線が彼へと集まる。
「ヴィオレッタのみならず、君たち全員に聞いてほしい。これからはより一層、自分自身を律することが必要とされる。もう君たちは子供ではない、立派な大人だ。そして帝国でも並ぶ者のない戦士たちだ」
そして彼は続けて言った。
「おめでとう。君たちは今日をもって〈スカリエ学校〉を卒業となる。私と君たちの関係はこれまでの先生と教え子から、上官と部下に変わるんだよ」
それはピーノとしてもまったく予期していなかった言葉であった。
皇帝ランフランコ二世との約束の期間は二年だと聞いている。まだ半年と少しくらいは時間が残っていたはずだ。
そんな疑問が誰の顔にも浮かんでいたのだろう、先回りしたニコラが「約束なんて、政治の世界では過去の干からびた文言に過ぎないよ」と一瞬、冷めた眼差しで語る。
「先日のカンナバ盆地における会戦、ここで敗北を喫したのが陛下としても相当堪えたらしい。無理もない、反攻の狼煙と位置付けていらっしゃったのだから。だから陛下は私を呼び戻すことにされたのだ。成長著しい君たちとともに、ね」
そう言い終えた彼は右腕の袖だけをめくり上げた。現れたのは、まるで老人さながらに皺だらけの腕であった。
初めて目にするその腕に、ピーノたちは思わず息を飲んだ。
「ご覧の通り、私の片腕はもはや戦場では使い物にならない。セルジ平原での戦いで少々無茶をしてしまったからね」
父であるスカリエ将軍を死へと追いやった裏切り者のクラヴェロ少将を仕留めるために、ニコラが凄まじき槍の一撃を見舞ったというのはウルス帝国においてもはや伝説の域である。
弓矢どころか、投石器でさえどうにもならないほどの長い距離をあっという間に飛んでゆく長槍。そしてクラヴェロ少将はきっと何が起こったのかもわからず、体を貫かれてしまったに違いない。
「苛烈な試練を乗り越えて『門』を開き、厳しい訓練の日々にも耐えてきた今の君たちであればもうわかるだろう。内なる生命の力というのはとてつもなく爆発的なものだ。使い方を誤るとこの通り、大きな代償を必要とするほどにね。きちんと制御することを第一に考えろ、と何度も繰り返し伝えてきたのもそのためだよ」
君たちに同じ轍を踏ませたくはないのさ、と真剣そのものの表情で言った。
「生命の力は時間とともにまた回復して戻る。だからこそ、一気に放出するような事態だけは必ず避けなさい。腕の一本ですむならまだいいが、もしかしたら取り返しのつかないことになってしまう可能性もある。だめだ、そんなのは絶対にだめだ。家族のいない私にとって、君たちはほとんど同様の存在なのだから」
ニコラの言葉以外に聞こえるのは、穏やかに吹いている風の音のみ。それほどまでに誰もが静かに耳を傾けていた。
「陛下から〈スカリエ学校〉と名付けてはいただいたものの、私がやっていたのは所詮教師の真似事に過ぎなかったかもしれないな。それでも私にとっては有意義でかけがえのない時間だったと胸を張って言える。もし君たちにとってもそうであったら、これほどうれしいこともない。今後の立場は変われど、その気持ちが変わることはないだろう」
平然と少年少女たちに死刑囚の執行をさせるという恐ろしい一面も持ち合わせていたニコラだが、彼が心にもない嘘を並べているようには思えなかった。
そんなピーノの内心など知る由もなく、いかにも〈シヤマの民〉の出らしい笑顔を浮かべてニコラは話を締めくくる。
「っと、アマデオの力作を前にして話が長引いてしまったな。悪かったねみんな。さ、どんどんいきなさい」
ぱあん、と彼が大きな動作で手を叩いた。
それを合図にして、再び料理の争奪戦の幕が開く。
今度はアマデオも参戦し、とんでもない量をかっさらっていく。エリオが「おまえ、ちょっとは加減ってものを知れ!」と拳を握り締めて立ち上がり、周りのカロージェロやフィリッポも大騒ぎだ。
ピーノの傍らではトスカもくすりと笑っている。どうしたの、と訊ねると彼女からこんな答えが返ってきた。
「わたし、楽しい夢も見ていたんだなあって、ただそれだけ」
意味がわからず、ピーノはほんの少し首を傾げる。
そんな彼を見て、トスカがまたくすくすと笑っていた。




