移ろう日々に心は惑う
一か月近く続いたザニアーリ牢獄での出来事について、まるで示し合わせたかのように誰も話題に出すことはなかった。
口にしたくないという気持ちはもちろんピーノだって持っていたし、表向きは十三人の関係に特段の変化が見られたわけでもない。エリオとの会話だってこれまで通りだ。
それでも得体の知れない居心地の悪さを感じていたのは事実だった。自分たちにはわからないほど深いところで、何かが決定的に変わってしまったのだろう。
目に見えて変わったのは、内なる生命の力を引きだすことを体得した〈スカリエ学校〉の子供たちが、一気にニコラへ並ぶ勢いで強さを発揮しだしたことだ。これには先生役のニコラも非常に満足そうであった。
リュシアン、ピーノ、セレーネ、カロージェロ、ユーディット、ヴィオレッタ、フィリッポ、エリオ、ダンテ、アマデオ、オスカル、そしてトスカ。この順に十二人は血生臭い試練を突破することができた。
しかしただ一人、ルカだけが不合格とされてしまう。彼の処刑した囚人の数が十に達したところで、ニコラが打ち切ったのだ。
ほとんどやけになって何度も手を血に染めるばかりのルカへ、先生らしくニコラは厳しめの口調で言って聞かせていた。
「これ以上は無意味だろう。いくら相手が死刑囚とはいえ、続けるのは命の無駄遣いでしかない。ルカ・パルミエリ、君には最初に伝えたはずだ。命を最後の一滴まで出し尽くせと。才能に恵まれなかった者はそこまでしてようやく、才能溢れる者の背中を追うことが許される」
壁を超えた今のピーノから見ても、ニコラの言葉が正論だとわかる。そもそもの話、おそらくルカは「門」を開いたところで、絞りだせる生命の力もさほどではないのだろう。
十二人と一人、そこには持って生まれた生命の塊の大小という、努力ではどうにもならない深い溝が横たわっていた。あの最終試験の際、握手を交わすだけで各人の資質を見抜いたニコラの眼はまったく恐ろしいほどだ。
とはいえルカも完全に突き放されはしなかった。以降も〈スカリエ学校〉への帯同を咎められたりすることなく、相変わらずピーノたちとともに鍛錬に明け暮れる日々を送っている。
そんな状況を彼がどう感じていたのかはピーノにはわからない。ルカの口数が極端に減り、誰とも絡もうとしなくなっていったことから察するだけだ。
自然、ルカは孤立に近い立場となった。完全に孤立してしまわなかったのはエリオがいたためである。人のいいエリオは常に彼を気にかけ、くだらないことを話しかけては無視されるのを繰り返していたのだ。
そんな光景を眺めながら、ピーノは「不貞腐れているんだから放っておけばいいのに」と思うのが常だった。
◇
さらに一年近くの日々が流れていく。
かつて辺境に暮らす少年であったピーノとエリオは、ドミテロ方面部隊に所属するノルベルト・ボニーニに連れられて旧都アローザまでやってきた。密度の濃い時間を過ごしてきたためか、もう随分と昔のことに思えるが実際にはまだ一年半程度しか経っていない。
気さくで温厚な大男だったノルベルト、彼が戦死したとの報を受けたのだ。
ピーノとエリオだけがニコラに呼ばれ、その知らせを告げられた。
「君たちは長く困難な旅を共にし、随分とボニーニ軍曹を慕っていたと聞いている。辛いだろうが、きっと彼も戦場で立派な死を迎えることができて本望だったはずだ。あまり気を落とさないようにしなさい」
あのノルベルトの死は確かに悲しい。だが、その淡い悲しさは皮膚のところで溶けてなくなり、奥まで届いてはこなかった。涙なんてちっとも出てこない。そんな自分がピーノには信じられなかったが、もはや受け入れるしかないのだ。
どうやらエリオも似たようなものだったらしく、無表情にぽつりと「ノルベルト、兵長から軍曹に出世してたんだな」と呟いただけに留まった。
ただ、気になることがある。
「先生」とピーノは俯き加減に呼びかけた。
「ん? どうした」
「ノルベルトはどこで死んだの」
わずかな間を置いてからニコラが答える。
「セルジ平原での一戦以来となる規模で、大同盟側との会戦が行われてね。そこでボニーニ軍曹は奮戦の末、あえなく命を落としたということだ」
「だから、どこで」
やけに食い下がるピーノに対し、隣のエリオが首を傾げて言った。
「おいピーノ、いったいどうしたんだ。何をそんなに気にしてるんだよ」
「エリオは心配じゃないの? ノルベルトのドミテロ方面部隊が動いてたってことは、ぼくらの家の近くが戦場になっているかもしれないんだよ」
「そういうことか!」
慌ててエリオもニコラへと強い視線を向ける。
しかしニコラに動じた様子はない。平静そのものだ。
「その心配なら不要だよ。ドミテロ山脈の東の麓に広がるカンナバ盆地が今回の戦場だったからね。君たちの家族は間違いなく無事だろうし、それほど影響もなかったはずだ」
「なら、いいんだけど」
ニコラから「無事」という言質を得て、ピーノもようやく引き下がった。
これから先、祖父や母に再び会える日がやってくるのかどうかはわからない。ピーノの前途にはきっと闘争に次ぐ闘争が待ち受けている。生きて故郷に帰れるだなんてのは高望みが過ぎるだろうし、すでに望む資格さえないはずだ。
だからせめて、家族には羊とともに生きる静かな日々をこれからも送ってもらいたいと祈るように願う。そのくらいなら願ったってかまわないんじゃないかな、と思いながら。




