ザニアーリ牢獄の地下で行われたこと
初めて人を殺めた日のことをピーノは鮮明に記憶している。胃の中のものをすべて吐きだしたことも、冬の夜みたいにずっと全身が震えていたことも、何度も不意に足元が崩れ去っていくような錯覚に襲われたことも。
まさに悪夢のような体験だった。
ニコラが新たに授業へと組み込んだのは、処刑だ。
死刑執行を待つ身である囚人たちの処刑役を、〈スカリエ学校〉の少年少女たちが一手に引き受けることとされたのだ。
例によって食堂で、ニコラは教え子たちへと話を切りだした。
「私はこれまでの半年間、君たちに過酷な訓練を強いてきた。そして見事、君たちも私の期待に応えてくれた。まずはその素晴らしい才能とたゆまぬ研鑽とを称えさせてほしい」
そうして数度、彼が拍手を送る。
しかしまた表情を引き締めて厳しく告げた。
「だがまだ何も得られてはいない。そこは肝に銘じておかなければならないよ。すべてはここからだ。君たちは大きな試練を乗り越えていくことになる」
このような訓示の後、ニコラは皆を引き連れてとある場所へと向かった。
新都ネラの近郊、周囲にはまったく何もない土地へ突如として威圧感を漂わせる建物が現れる。ザニアーリ牢獄だ。
まだ出来て間もないこの堅固な牢獄だが、すでに相当数の重罪人が収容されている。その中には皇帝への謀反の恐れありとの嫌疑をかけられた、いわゆる政治犯も多い。
ニコラの背中を追い、ピーノたちは昼でも薄暗い牢獄の奥へとどんどん進んでいく。十四人の足音が石造りの廊下に反響する。
「お待ちしておりました、スカリエ中佐」
案内役らしき看守が姿を見せ、一行はさらに奥へと向かった。
階段を下ってまた奥へ。当然ながら明かり取りなど設けられておらず、地上の光はここまで届きはしない。唯一の頼りは看守が手にしている蝋燭の炎のみだ。
そして先頭を歩く彼が最奥部までやってきて立ち止まった。
「こちらです。準備は整っておりますが──」
振り向いた彼の顔を、陰影濃く蝋燭の炎が照らしだす。
「見たところ、お連れになったのはまだ年端もいかぬ子供たち。処刑役を任せて本当によろしいのですか?」
「ご心配なきよう。この子たちには必要な試練なのです」
ニコラの返答に淀みはない。
ならば、と看守が鍵を取りだし、鉄の扉に備え付けられた錠前へと差しこむ。重々しい音を立てて扉が開かれていった。
ここまでにニコラからは何の説明もなかったが、言葉の端々からどういうことをさせようとしているのかくらいはピーノにも察しがつく。
他のみんなも同様らしかった。物怖じしているのを見たことがないエリオだけでなく、普段は饒舌なフィリッポに一言多いセレーネ、それにあのルカだって押し黙ったまま一切の言葉を発しない。外よりも空気が少し冷たいせいなのか、ピーノは寒気を覚える。
緊張感に包まれている様子の教え子たちに対し、ニコラが「どうやらもう心構えはできているようだね」と落ち着き払った声で言う。
「さすがに私の見込んだ子供たちだ。今から行うのは生と死の境界に触れるための新しい授業であり、具体的には君たち全員に死刑囚の処刑をその手で執行してもらう。そしてこれこそが『門』を開くための最も重要な授業となるだろう。他者の死によってのみ、自らの内に眠る生命の力の流れを強く意識することができるのだ」
静かに、しかし激烈な意志を感じさせるニコラの力説が続いた。
「生命とはとても尊いものだ。ありとあらゆる生命を慈しみなさい。小さな虫、道端の名もない草花、人に仇なす獣、憎き敵国の兵、大罪を犯したがために眼前の獄中にて死を待つ弱き者。すべての命は君たちの手の中にある。それらをありったけの愛と敬意でもって踏みにじりなさい」
◇
ニコラによって「おめでとう。殻を破ったね」と祝福されるまで、ザニアーリ牢獄の地下における陰惨な行為は続いた。つまり、何人もその手にかける羽目となったのだ。
両腕と両足を拘束され、頭部には視界を塞ぐための黒い布がかけられている囚人たち。唯一、露出している肌は首だけだった。手渡される何の変哲もないナイフで、狙いを過たず喉を切り裂かねばならない。
それでもピーノは三人目で終わることができた。
リュシアン・ペールと並んで最も早く、ニコラから試練の終わりを告げられた際は心の底から安堵した。荒れる河を死に物狂いで泳ぎどうにか対岸へとたどり着いた、そんな心境だ。
一人目、そして二人目のときは早くその場から逃げだしたくてたまらなかった。まとわりついてくるような場の圧力に抗し切れなかったのだ。
だからピーノは三人目でやり方を変えた。光も届かぬ地下の暗い一室で膝を抱えて座りこみ、どうにか助かろうとして必死にもがいている囚人をずっと見つめ続けた。見つめながら、彼はひたすら自らの内側へと意識を向けていた。
蝋燭の炎はない。暗闇の中、次第に己の肉体を循環する光の筋が可視化していくような錯覚に陥る。幻を視ているのかと思いつつも、ピーノは流れる光の筋を束ねて右手の指先へと集約させていく。
もうナイフなど必要ないのだ、と感覚で理解した。ナイフを床へ残したまま音もなく立ち上がり、怯える囚人へ近づいてその顔を左手で優しく撫でる。
「大丈夫。痛くも苦しくもならないから」
そう口にしながら、指先までぴんと伸ばした右手をわずかに横へ払った。
こうしてピーノはニコラが言うところの「門」を開けることに成功する。
同時に否応なく思い知った。もはや辺境のドミテロ山脈で家族や羊とともに暮らしていた自分などどこにも存在せず、いるのは常識外れの力を手にしてしまった人殺しだけなのだ、と。




