表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
4章 さよなら、さよなら、たくさんのさよなら
34/162

ニコラの授業

 ピーノやエリオたち十三人の少年少女たちはニコラ・スカリエを「先生」と呼び、一年と半年ほどの濃密な日々をともに過ごしてきた。それはまさしく〈スカリエ学校〉の呼び名にふさわしい時間であっただろう。


 ときどき、ピーノはニコラによる最初の授業を思い出す。

 森の近くで皇帝ランフランコ二世への謁見を行った日のことだ。寮と学び舎とを兼ねている建物へ帰ってきたピーノたちを再び食堂へ集め、ニコラはおもむろに何かを取りだした。

 小さな巾着袋から、白いものが手の平へさらさらとこぼれ落ちていく。


「さて君たち、これは塩だ。塩がなければ料理なんていったいどう作ればいいのか、そう頭を抱えてしまうくらい、我々の生活にとって重要なものだよ」


 今朝の食事にももちろん使われていたはずだ、と彼は言う。

 さすがにピーノだって塩くらいは知っている。祖父が刈り取った羊毛と引き換えの取引で手に入れ、その塩を使って母がスープを作ってくれていたのだ。彼の家のいわば定番料理だった。

 ニコラの話が続く。


「ならば塩を得るにはどうすればいい? 一例だが、大量の海の水を太陽や風の力によって乾燥させることが代表的な方法として挙げられるだろう。水が蒸発してしまうまでね」


 ここでエリオが「おいおいまた出たよ、海ってやつ」と口を挟んだ。

 となればすかさずルカも「田舎者は黙って無知を恥じてろよ」と、鼻で笑うような野次を飛ばしてくる。

 だがニコラの応対はエリオとピーノにとって優しいものだった。


「ああ、ドミテロ山脈出身では海をよく知らないのも無理はないな。これは私の説明が不親切だったようだ。海の水はね、塩分を含んでいてしょっぱいんだよ」


 それからひとしきり、彼による海についての講義が行われた。

 どのような自然現象なのか、ウルス帝国の歴史にはどう関わってきたのか、海とともに生きる人々の営みはどういったものか。三つめについては漁師の息子であるカロージェロも大いに熱弁を振るうことを許された。


「さて、随分と寄り道をしてしまったが本題に戻ろう」


 ニコラがとん、と親指で胸のあたりに触れる。


「実は私たちの体の中にも塩分が存在する。自分の汗を舐めてみたことはあるかな? セレーネ、そう嫌そうな顔をして首を振らなくてもいいじゃないか」


 ピーノが見たところ、露骨なまでの嫌悪感を顔へ浮かべているセレーネ以外は概ね納得の表情であった。

 そりゃそうだ、とピーノも思う。誰だって自分の汗の味くらいは知っている。

 ここでニコラが一つ頷いて見せた。


「察しのいい者はもう気づいているだろう。これは例え話だ。他を圧倒する、魔術的な力をどこから得ようとするのかについてのね。君たちの肉体には素晴らしい力が眠っているし、それを目覚めさせるための才能だって充分に備わっている。後は私がきっかけを与えていくだけなんだ。ほんのささやかなきっかけを。そうすればきっと、君たちは遥か遠くまでたどり着くことができるはずだ」


 私は心からその時を楽しみにしているよ、と言い添えて締めくくった。

 彼が話した内容について、ピーノは気づかれないほどわずかに眉をひそめる。舞踏によって自然から力を借りることのできる〈シヤマの民〉の血を引くニコラが、なぜそれを否定しようとするのか、と。


 この最初の授業がどれほど大事であったのかについては、ピーノやエリオ、そして他の少年少女たちも次第に理解を深めていくこととなる。


       ◇


 十三人の子供たちにとって、ニコラ・スカリエは非常に優れた教師であり、同時に少し年の離れた兄のようでもあった。親しみやすく、しかし馴れ馴れしく接することはできない、そんな距離感。

 彼にはおよそ欠点というものが見当たらない。どのような分野の知識にも明るく、武具の扱いにおいても全般に通じていた。それらを惜しみなく彼は子供たちへと伝え、血肉とさせていったのだ。


 わずかな自由時間を使い、ピーノとエリオは彼から語学を教わった。いつか〈シヤマの民〉のハナと再会した際、今度はきちんと話ができるようになりたかったからだ。

 ニコラによる課外授業の効果は絶大だった。二人はすぐに〈シヤマの民〉の言葉を習得し、それだけに飽き足らず他国の言葉も貪欲に学んでいく。敵国であるレイランド王国やタリヤナ教国でも問題なく生活できるほどに。


 他の少年少女たちも、それぞれにいろんなことを教わっているようだった。

 馬に乗れると強がり散々な目にあったヴィオレッタは、類稀なる乗馬の名手となった。彼女の惚れ惚れするような手綱さばきには誰もが喝采を送る。

 ただ、彼女に次ぐ腕前の持ち主が実はトスカだったことにピーノは驚かされた。最初の日にどうして荷馬車組へ入っていたのか、と訊ねもしたが、トスカときたら視線を逸らすばかりで何も答えてはくれなかった。

 アマデオなんかは料理を教わり、オスカルも経済の仕組みを習っていたりとまるで軍人に関係のない事柄でもニコラは快く引き受けていた。


 そのようにしてほとんどの者が順調に成長していくなか、一人だけ徐々についていくのも遅れがちとなっている少年がいた。ルカ・パルミエリである。

 かつての選抜試験において、ニコラは彼に対し「君には才能がない」と断じていたが、その見立ては正確であったと言う他ないだろう。


 ピーノの目から見ても、ニコラのルカへの態度は一貫してやや冷淡に映った。それでもルカは敬意とともに教えを請い、ニコラも求められればきちんと先生としての役割を果たしているようだった。

 スカリエ学校での生活が始まって半年くらいは経っていただろうか、エリオがルカに質問したことがある。


「おう、最近えらく勉強熱心じゃねえか。何やってんだ?」


 建物内に設けられた図書室で一人、黙々とルカが書物を読みふけっているのを指しての問いだったが、答えはすぐに返ってきた。


「毒について学んでるんだよ」


 頬が引き攣ったような笑みを浮かべ、ルカは自らの首をゆっくりと掻っ切るような仕草をしてみせた。

 そういえば新しい授業が加わったのもちょうどこの頃だ。

 囚人の処刑を彼らの手で行うという、恐ろしい授業が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ