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父殺し〈2〉

 かつての恋から逃れられなかった哀れな養父を、慈愛とともに苦しみから解き放ってあげたにせよ、世間ではそれを殺人と呼ぶ。まごうかたなき罪だ。

 ナキが天才的な踊り手ヒミの忘れ形見といえど、もはや〈シヤマの民〉とともに暮らすことはかなわない。


 身を寄せるところとしてまずナキの頭に浮かんだのは、帝都アローザにいるというヴィンチェンツォ・スカリエであった。その男が実の父であることは以前に長老ユエから教えられて知っている。

 彼には逡巡などない。大人たちから耳にしていた地理の記憶と己の勘を頼りに、さっそく帝都アローザへと向かった。十一歳の子供とはいえそこは流浪を続ける〈シヤマの民〉、旅慣れたものだ。一度だけ餓死寸前にまで追い詰められはしたが、偶然に通りがかった旅人を襲ってどうにか事なきを得た。


 よほど強い光を放つ星の下に生まれたのだろう。言葉もろくに通じぬまま、見事にナキは帝都アローザへとたどり着く。

 彼がまずやったのは、人通りの激しい往来でひたすらヴィンチェンツォの名を連呼することだ。人目を引く褐色の肌の少年が、喉も潰れよとばかりに青年貴族の名を叫ぶ。異様という他ない。


 あっという間に憲兵隊が駆けつけ、ナキは取り押さえられてしまう。そのまま連行されはしたものの、憲兵隊にしたってそもそも言葉の通じぬ彼と意思を疎通させる手段がない。適当に痛めつけて帝都の外へ放りだすかと話がまとまりかけた頃、息せき切った中年の男が「この少年の身柄をもらい受ける」とやってきたのだ。スカリエ家の使いの者だった。


 広大な館へと連れていかれたナキを、細身の男が玄関口で待ち構えていた。ヴィンチェンツォ・スカリエ、当主自らの出迎えである。


「おお……、おお……! その肌、その眼差し、やはりヒミの子か!」


 感情を高ぶらせている目の前の男が何を言っているのかはナキには見当もつかないが、それでも母であるヒミの名だけは聞きとれた。

 ヒミ、と呟いてナキが天を指差す。次いで《ヴィンチェンツォ》と。そして最後に自分を指して《ナキ》と名乗った。

 ヴィンチェンツォは静かに涙を流していた。そして彼は片膝を折り、優しくナキを抱き締めて耳元でささやく。


「よく来てくれた、我が息子よ」


 またしても言葉の内容はわからなかったのだが、それでも男の腕から伝わってくる温もりを心地よく感じるナキだった。


       ◇


 ヴィンチェンツォはナキを正式に自分の息子として迎え入れた。しかも今日に至るまで彼には子供ができなかったため、スカリエ家の跡継ぎとしてである。

 彼もまた、結局ヒミに捉われたままの人生を送っていた。妻に対してはまるで興味を持てず、ただ別れていないだけという状況が続いている。世継ぎがいないとなればスカリエ家のこの先にも希望はない。


 そんなところへ突然現れたのが、ヒミの面影を濃すぎるほどに受け継いでいる褐色の少年ナキだ。自身の人生における光とばかり、ヴィンチェンツォはありったけの愛情を息子へと注いだ。甘やかすのではなく、英才教育を施し、出自への誹謗中傷には毅然とした態度を崩さず、常に息子の盾となることで。


 そんな実父の思いにナキも応えてみせた。もうこのときにはナキという古い名を捨て、帝国風にニコラ・スカリエと名乗るようになっていたが。ナキ改めニコラは有能な軍人として知られるヴィンチェンツォも舌を巻くほどの吸収力で、ありとあらゆる分野に興味を示し、学び続けた。

 すっかり語学も堪能になり、今後のウルス帝国がとるべき針路について父と議論することも珍しくない。

 いつしか彼は父と同じく、軍人になるべく道を定めていた。


 戦場であれば数え切れぬほどの生と死が交錯している。

 そう、新しい名となっても彼の本質には何ら変わりはない。

 訓練や勉学の傍らで、自身の肉体から生命力を引きだすために今も試行錯誤を続けていた。「門」が(ひら)かれる時を待ち続けていたのだ。


       ◇


 大陸全土を手中にせんとし、皇帝ランフランコ二世が大戦争の火蓋を切って落としたのはニコラが十八歳のときであった。

 父ヴィンチェンツォ・スカリエは各地で戦果を挙げたことにより、順調に出世の階段を上っていく。その父に付き従う形で、ニコラも様々な戦場へ出向き、目覚ましい活躍を幾度となく見せてきた。


「おまえは私の誇りだよ、ニコラ」


 息子への称賛を惜しまない父へ、彼は柔らかく微笑んで応える。そんな光景もウルス帝国軍においてすっかりおなじみとなっていった。


 そしてあるとき、敵方の策に嵌まって劣勢となった戦場にて、ニコラは唐突に「門」を(ひら)いた。走る際に足を動かすように、もしくは書物の頁を指先でそっとめくるように。ずっと以前から慣れ親しんでいたかのような、初めてなのに馴染み深い感覚。


 彼が率いる小隊は全滅の危機に曝され、一人また一人と野に倒れていく。ニコラもまた迫りくる死へ今にも飲み込まれようとしていた、その最中(さなか)であった。

 圧倒的なまでの生命の奔流が体中を駆けめぐって循環し、やがて一つの大きな流れとなり、脆く柔らかな肉体を遥かな高みへと押し上げた。ニコラはその意味を立ち所に理解する。桁外れの強靭さを彼の身体は獲得したのだ。


 まずは最も近くにいた敵兵を頭から一刀両断にしてみせる。いや、これはまったく正確ではない。兜ごと頭蓋骨を叩き潰し、そのまま股座まで強引に押し切ったのだ。剣の刃はぼろぼろこぼれ、使い物にならなくなってしまったが、敵兵もまた原形をとどめていなかった。

 次々と敵兵たちが彼の人知を超えた力によって屠られていく。その様子を目の当たりにしては取り囲んでいた敵勢に戦慄が走るのも無理はない。命あっての物種とばかりに離反が相次ぎ、もはや形勢はすっかり逆転した。


 味方の誰もが絶体絶命からの勝利に興奮状態であった。普段は温厚で冷静な父ヴィンチェンツォでさえ例外ではない。皆が口々にニコラの奮戦を褒め称える。

 だが顔色ひとつ変えず殺戮し続けた当のニコラは、さながら朝のお祈りを勤めるセス教の僧侶のごとく超然としていた。源が己の生命であるがゆえに、その凄まじい力とて無限に湧き出るものではない。全身が極度に疲弊していたのもあってのことだが、それ以上に充足感で満たされていた。

 この日この時、自らの力のみで魔術と並んでみせた彼は、本当の意味で〈シヤマの民〉との決別を果たしたのだ。


       ◇


 ニコラの運命が再び大きく動いたのは二十五歳のときである。

 戦争の情勢は目まぐるしく移り変わり、相容れぬ間柄のレイランド王国とタリヤナ教国とが手を結んだことによって、反ウルス帝国を旗印とする大同盟が成立していた。

 波はあれども着実に領土拡大を続けていたウルス帝国だったが、この出来事によって天秤が急激に大同盟側へと傾いていったのだ。


 帝国軍は各地で戦線の後退を余儀なくされ、何人もの将官がランフランコ二世の苛烈な怒りを買って処刑されてしまう。そして優秀な将官を失った帝国軍はさらなる苦戦を強いられる。悪循環であった。

 そんな状況を一気に打破すべく、ウルス帝国は大きな賭けに打って出た。相当数の兵力を動員し大同盟との短期決戦を企図したのだ。

 帝国の思惑に乗る形で大同盟側も兵力を集結させ、両軍勢がセルジ平原において歴史的な会戦を行うことになる。


 しかし不思議ではあった。どうして優位に立っている大同盟が、あえてウルス帝国の誘いに乗ってきたのか。将軍にまで上り詰め、遠征軍の総大将を任されたヴィンチェンツォはそのことを訝しがった。父の右腕的な存在となったニコラも同感だった。


 会戦の幕が開き、両軍ともに一進一退の戦況が続く。その流れの中で二人は大同盟側が描いていた勝利への道筋をまざまざと見せつけられてしまう。

 敵の側面を突くべく移動させていたクラヴェロ少将の部隊が裏切ったのだ。事前の手筈通りだったのだろう。帝国軍は陣形における最も手薄な箇所を攻められ、あっという間に総崩れへと追い込まれていく。

 指揮を執る将軍ヴィンチェンツォ・スカリエは激高した。


「おのれクラヴェロ、見下げ果てたぞ! 祖国への恩義の何たるかも弁えず、己が身だけの安寧欲しさに寝返るとは! まったくもって救いようのない下衆め!」


 父が他人をここまで悪しざまに罵ったのを、ニコラは今までに一度も耳にしたことがない。それほどまでに精神が追いつめられている証左でもある。

 もはや大勢は決したも同然だった。


 やむを得ずヴィンチェンツォも撤退の断を下し、ウルス帝国側の全軍が退却を始める。そこから大同盟軍による追討戦の様相を呈することになり、ニコラたちも血で血を洗うような生存のための戦いを強いられた。


 一瞬の油断も許されず、ひたすらに馬を飛ばす。そんな中、驚異的な聴力を誇る彼の耳がある音を捉えた。離れた場所で弓の弦が引き絞られた音だ。

 ニコラはふと思う。幸運にもこのまま生き延びることができ、帝都まで無事に帰り着いたところで、待っているのは怒りに満ちた皇帝による処断だ。

 間違いなく、総大将として敗戦の責を問われた父は死罪とされてしまうだろう。これまでの者たちと同様に。


「父上!」


 少し先を走るヴィンチェンツォの背へ、ニコラは大きな声で呼びかけた。

 わずかに馬の速度を緩め、ヴィンチェンツォが振り返ろうとしたその瞬間。彼の首へと見事に矢が突き刺さった。致命傷であった。

 どう、と落馬してしまった父の体を右腕一本で拾い上げ、そのままニコラは駆ける。これでいい、と内心で思いながら。これで父ヴィンチェンツォの死は皇帝の怒りを買った末の不名誉なものでなく、戦場での名誉あるものとなる。


 多大な犠牲を出しつつもその後どうにか全軍の撤退まで導いたニコラだったが、彼には一つだけやり残していることがあった。

 遠くの丘に裏切り者であるクラヴェロ少将の姿が小さく見えたとき、ニコラにとってはまたとない好機となった。


「槍を」


 伴の者にそう声をかけ、長槍を手にする。

 体の内から爆発的に噴きだす生命の流れとともに、ニコラは握り締めた長槍をとんでもない勢いで投擲した。一直線に遥か彼方へ飛んでいく槍は狙い過たず、敵方の将と談笑していたクラヴェロ少将の胴体を鎧ごと貫通してしまう。

 常軌を逸した所業の代償として、彼の右腕はさながら齢を重ねた老人のごとく弾力を失い、硬く骨ばってしまったのだが。


 こうしてニコラ・スカリエは今へと至る。

 内通者クラヴェロを仕留めたのもあってかランフランコ二世からは叱責されることもなく、むしろ称賛と信頼の言葉を頂戴し、ニコラの地位もここに確立された。

 そして彼が自らの希望を皇帝へと願い出る。

 どんな戦場に在っても、どんな敵とまみえても、決して敗北することのない最強の精鋭部隊。

 私のすべてを教えこみ、〈帝国最高の傑作たち〉を作り上げたい、と。

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