父殺し〈1〉
ニコラ・スカリエの半生を語るには、まず彼の母が落ちた恋についての話から始めなければならない。
名をヒミといい、〈シヤマの民〉において次代を担う踊り手と目されていた少女であった。幼い頃から自然の声を聴くことができ、伸びやかな肢体へと成長するに従って、彼女の奔放な踊りは天与のものとしか思えぬほどに抗えぬ魅力を放っていった。
長老ユエも自らの後を継ぐ存在と見定めていたのだろう。熱心に、時に厳しくヒミを導き、鍛え上げてきたのだ。
だが少女から大人へと移り変わろうとする、その狭間でヒミは恋に落ちてしまった。もちろん恋愛自体は誰もが一度は通るもの、彼女に何ら落ち度はない。ただしこの場合は相手が悪かった。
ヴィンチェンツォ・スカリエ。代々続く名門貴族スカリエ家の出でありながら、ウルス帝国軍期待の若き将官としても注目を集めていた俊英だ。
◇
二人が出会ったのは霧のような雨の降る日だった。
毎年のように氾濫を起こす河川を治めるべく、とある地方へヴィンチェンツォは視察に訪れていた。ウルス帝国では治水事業も軍の管轄とされていたからだ。
「今日は雨ですのでお休みになっていては」
地元の役人がそのように勧めてくるのをやんわりと退け、濡れるのを厭いもせず熱心に周辺の視察を行った。
相当の距離を進んだ彼が河川の上流へ近づいていったときのことである。雨に煙る対岸で何者かが激しく踊っている姿が目に入った。ぼんやりとしか見えていないはずなのに、あまりにも鮮烈に。
褐色の肌を持つ美しい少女。そう、ヒミだ。
まるで雷に打たれたようだった、と後にヴィンチェンツォは述懐する。居ても立っても居られなくなった彼は、あろうことか水嵩の増した河川を泳いで渡ろうと試みる。もちろん従者によって力ずくで止められてしまうのだが。
雨が上がった翌日、ヴィンチェンツォは昨日の娘を捜しに出掛けた。しかもその娘ヒミとはすぐに再会することができた。何を思ってのことなのか、彼女はまったく同じ場所で踊っていたのだ。微笑みを浮かべて。
言葉は通じない。だが二人の気持ちはすぐに通い合った。身振り手振りを交えてどうにか名前を教え合い、互いの名を何度も呼び合う。どちらからともなく手を取り合って踊りだし、時には抱き寄せたみたいに身体が触れて赤面もする。
そうしてヴィンチェンツォとヒミは恋に落ちてしまった。
ヴィンチェンツォはより深い視察をと称してなかなか帝都アローザへ戻らず、ヒミはヒミでずっと〈シヤマの民〉から離れて単独行動のままだ。ともに将来を嘱望されている身である以上、そんな日々が長く続くはずもない。
十五日間。二人が一緒にいることができたのは、時間にしてたったそれだけだ。
決して驕らず、誰に対しても慈しみ深く、端正な外見と人望の厚さを併せ持った青年貴族ヴィンチェンツォ・スカリエ。
二人の恋は、最終的にそんな彼の裏切りによって幕を閉じた。熱情に満ちた恋よりも結局は家名を選んだのだ。何もかもを捨て去る決断を下せるほどの覚悟は、ヴィンチェンツォにはなかった。
彼が帝都アローザへ戻ってからは、一度も会ったことのない許嫁との縁談話が急速に進み、そのまま婚姻、そして家督相続へと相成った。
すでに過去の記憶でしかないヒミとの恋を証してくれるのは、もはや彼女のお腹の中に宿った一つの小さな命のみである。
しかしヴィンチェンツォはそのことを知らない。
◇
放蕩娘であるヒミがしばらく行方をくらませるのはそう珍しいことでもなかった。流浪の民としての生き方は息苦しい、常々そのように公言していたからだ。そして気がすめば戻ってくるのもいつものことだった。
だが〈シヤマの民〉の一人が路傍で倒れている彼女を見つけたとき、その顔からはすっかり生気が失われていた。
慌てて一行へと連れ戻され、長老ユエや他の者たちから必死の看病を受けたヒミはどうにか体調を持ち直す。それでも頑として、長老ユエ以外には何があったのかを話そうとはしなかった。
そのうちにヒミの調子がまたも崩れるのだが、先だっての体調不良とはいささか様子が異なっていた。長老ユエがわずかに膨らんだお腹に気づいたことで、ようやく皆も「子を宿したのだ」と理解する。ヒミ自身も。
誰からも称賛され、羨望を集めるほどに〈シヤマの民〉の踊り手としての圧倒的な才能に恵まれていたヒミだったが、彼女が踊ることはもう二度となかった。
懸命に力を振り絞って玉のような男の子を生み落としたものの、そのまま衰弱し続けてあっけなくヒミは死んだ。
周りに集まった〈シヤマの民〉の一同が沈痛な面持ちで見守るなか、ナキと名付けた息子へ、弱々しい声で《きっとあなたの人生は美しいものになる》と語りかけたのが、いわば彼女の遺言となった。
◇
幼子ナキの養父となったのがクダという青年である。同年代の男たちの中でも中心的な存在だった彼は、いずれ〈シヤマの民〉族長になるとまで目されていた。
クダはずっと、今は亡きヒミへの恋心を抱いて生きてきた。周囲の男たちが次々に妻を娶っても、彼だけはヒミへの想いを断ち切れない。だからこそ彼女の忘れ形見であるナキを引き取り、立派な若者へ育て上げることを誓ったのだ。
すくすくと、そして驚くほど母に似て美しく成長していくナキ。
本来なら喜ぶべきであろうが、どういうわけかクダは塞ぎこむことが多くなっていた。月が出ている夜の夕食時にだけ、適量を飲むことが許されている酒をこっそり呷っているのを見咎められたのも一度や二度ではない。
ある月のない夜、小さめの天幕で独りきりのクダはまたも酒を飲んでいる。少年となったナキはといえば、養父の代わりにいろいろな仕事を行うことが増えていた。もうすっかり〈シヤマの民〉においても一人前扱いだ。
そんなクダの下へやってきた者がある。
弟分である、少し年の離れたモズだ。彼から心配そうに訊ねられてしまう。
《クダの兄ぃ、いったいどうしてしまったんです。あれほど頼もしかったあんたが、今じゃすっかり見る影もなくなっちまって》
悩み事があるなら何だって相談してくださいよ、とモズは言う。
クダは少し迷った。誰にも口外するつもりはなかったが、信頼できるこいつにだったらいいのでは、と。
酒に酔っていたせいもあるのだろう。とうとう彼はこれまで溜めこんでいた思いの丈を吐きだしてしまった。
《似すぎているんだよ、あいつは》
老年かと見紛うほどの深い皺が何本も額に刻まれる。
《いつだって、おれはナキを見ているとヒミを思い出しちまう。ああ、こいつはあの人の息子なんだなって。おれとは違う別の誰かとの子供なんだなって。その度に胸をぐちゃぐちゃに掻き回されてしまうんだ。そうなったらもう駄目だ、何も手につきやしない》
《兄ぃ……》
《辛いんだ。ヒミに似すぎているせいで、おれはあいつを愛せない。そんなことではあの人に顔向けできないとわかっているのに。でも、どうしても無理なんだ》
最後の方ではすっかり涙声となっていた。
さすがにモズもどうにもしようがなかったのだろう。当たり障りのない慰めの言葉をかけるのが精いっぱいであり、そのまま辞去していく。
そんな彼と入れ替わるように戻ってきたのがナキである。
義理の息子を一瞥しただけのクダは、再び杯へと酒を注ぐ。
ナキが近づいてきても、もうそちらへ視線を遣ろうとさえしない。
吐息がかかりそうな距離にまでやってこられたとき、いきなりクダの体に焼けつくような衝撃が走った。
目に入ったのは長く鋭く尖った、吸いこまれそうなほどに深い青色の石。巡礼における祭事の際に用いられる、〈シヤマの民〉の宝剣だ。
それが今、クダの腹部へと突き立てられている。流れ出る真っ赤な血が美しい青を覆い隠していく。もう一度、さらに力が込められた。
《今までごめんね。もう何にも縛られず楽になってね》
まるでヒミと生き写しのような微笑みを浮かべてナキが言う。
その夜、養父を殺害した少年は〈シヤマの民〉から出奔した。
◇
まだ赤子だったナキの記憶には残っていないが、母であるヒミの遺骸は〈シヤマの民〉の手によって燃やされ、無数の灰となって風に舞った。炎の前では無表情の長老ユエが尋常ならざる激しさで踊り狂い、愛弟子の早すぎる死を悼んだという。
そんな長老ユエに対し、少年へと成長したナキはある質問をぶつけたことがある。なぜユエや母のような優れた踊り手でなければ魔術が使えないのか、と。
同じ〈シヤマの民〉なのに。同じ血を受け継いでいるのに。
長老ユエの返事は非常に簡潔だった。
《選ばれる者はあらかじめ決まっているんだよ》
しかしナキも執拗に《何で、どうして》と食い下がる。
彼の顔を真っ直ぐ見つめて、長老ユエがゆっくり言葉を選びながら答えていく。
《あたしに踊りを教えてくれたのはチノという名の、それはもうおっかない女性だったのさ。そのチノさんが言ってたんだよ。あたしたちが生命の力を借りることのできる自然には門があり、鍵がなければ開かない。そして鍵を握りしめて生まれてくるのは、この〈シヤマの民〉にあってもほんのわずかな者だけなんだってね》
《じゃあ、その鍵を持って生まれてこれたのが》
《あたしであったり、あんたの母のヒミであったりというわけさ》
不公平だ、ともちろんナキは思った。
だがそれよりも、長老ユエの語った「門」と「鍵」がひどく心に残った。
魔術の源である自然の力、おいそれと使われることのないようそこへ設けられた「門」。天に愛された才能を有する者による舞踏は「鍵」。
つかみどころのない霞のようであった魔術という存在へ、言葉によってはっきりとした輪郭を与える。そのための手蔓として「門」と「鍵」ほど的確な例えに、この先の人生においてもついぞナキが出会うことはなかった。
〈シヤマの民〉の、それもほんの一握りの特別な踊り手にのみ許された、魔術という力。その呪縛から離れられたきっかけこそが父殺しである。
幼年時代の日々が過ぎ去り、養父を手にかけたことで彼は生と死の境界に触れた。瞬く間にクダの肉体から命の息吹が冷たく散逸していく様は、どこか濁流となった川が氾濫する光景に似ていた。
そしてナキは聡明にも理解する。自分自身の肉体もまた自然であり、生命力そのものなのだと。外ではなく内へ、ひたすら内へ。自身の内に眠るその力を引きずりだしてやればよい。己の肉体なのだ、「鍵」ならばすでに開いている。
ナキと名付けられて育ち、後にニコラ・スカリエとして生きる男のそんな飽くなき探求が結実するまでには、養父クダのみならず数多の死を経なければならないのだが。