ニコラ・スカリエ登場
アローザの空は昨日と変わらず曇天模様だ。ノルベルトから聞かされた話では、雲のない晴れた日などこの街では年に一度か二度くらいしかないらしい。
ピーノとエリオはそんな曇り空の下、スカリエ家の私邸前へとやってきていた。豪奢な石造りの門から覗いた程度だと屋敷が豆粒程度にしか見えない。
先の会戦で戦死したというスカリエ将軍の地位や力が窺い知れる広大さだ。
だが、ここで新部隊のための最終選抜試験が行われると聞かされては、二人としても釈然としないものがあった。
「なあ、おれもあんまりよくはわからないんだけどさ。こういうのって普通は軍の施設でやるんじゃないの?」
前の時みたいにさ、と地域別の選抜試験を指してエリオが言う。
引率役のノルベルトも少し答えにくそうにして口を開いた。
「うーん、その点に関しては正直いって僕も同感なんだ。さすがはスカリエ邸、庭園だって軍の教練所に匹敵するほどに広い。ここから見てるだけでもそれはわかるよね。ただし訪れた客を色や香りで楽しませるよう、様々な花が植えられている。どう考えても激しい動きを伴うであろう選抜試験には不向きなように思えるんだが……」
そう言いながらノルベルトは、門の脇に設けられた受付台へと向かっていく。その大きな背中のすぐ後ろにピーノとエリオもくっついていった。
受付には二人の男が立っていた。二人とも、その制服で軍人だと一目でわかる。一人は直立不動、もう一人はたびたび手元の紙を確認していた。名簿だろうか。
彼らの前へ進み出たノルベルトが右肘を直角に曲げ、ちょうど鳩尾のあたりへ前腕部を持ってくる。左手の拳は腰の後ろに。これがウルス帝国軍人の敬礼なのだそうだ。
「ドミテロ方面部隊兵長、ノルベルト・ボニーニであります。当方における選考合格者、エリオとピーノの両名を連れて参りました」
二人の軍人もさっと敬礼を返す。流れるような動作だ。
片方の男はさっそく名簿に視線を落とし、目当ての名前を探しだした。
「エリオにピーノ……二人とも姓はないのですね。はい、両名の身柄を確かに引き受けました。ボニーニ兵長、ドミテロ山脈越えとなればさぞや厳しい長旅だったことでしょう。我が帝国の未来を担う有望な若者をここまで無事に送り届けていただいたこと、感謝いたします」
「はっ、何とありがたきお言葉」
敬礼の姿勢を崩さず、しゃちほこばってノルベルトが返答する。
旅の間、気のいい兄貴分として接してくれていた彼の軍人らしい一面に、ピーノはなぜだか少しおかしく思えてしまった。
「僕の任務はひとまずここで終了だ。今から軍に詰めて吉報を待たせてもらうよ。さ、思う存分暴れてくるといい」
受付を済ませたノルベルトが二人に向かって右手を差しだしてくる。握手を求めているのだ。
まずエリオが、次いでピーノがそれぞれ彼の大きな手をぎゅっと握り締めた。
「一緒に旅ができて、本当に楽しかったぜ。ありがとうな」
「また会おうね」
もしかしたら今日かもしれないけど、とピーノはまたからかってみた。彼らが最終選抜試験に落とされたときの場合だ。そうなれば再び三人での長い帰り道が待っている。
けれどもノルベルトの表情は真剣そのものだった。
「君たちならここで躓くことはないはずだ。僕はそう信じている。だからきっと、再会できるのは随分と先の話になるだろう」
心なしか、彼の目はかすかに潤んでいるように見える。
この瞬間を以て、ドミテロ山脈地域から旧都アローザまでの二十日間に渡る旅の仲間は解散となった。
◇
スカリエ邸内の道には、滑らかに削られた石が見事に敷き詰められている。
この道の先には人だかりが見えていた。ピーノやエリオと同じく、最終選抜試験に参加する少年少女たちなのだろう。
二人の前を歩くのは、先ほどの受付で直立不動の姿勢をとっていた軍人だ。黙々と会場までの道案内を行っている。
当然、ノルベルトのように気軽に話しかけられる雰囲気ではない。
だからといって会話自体を慎むピーノたちでもなかった。
「ふふん、うちの方が広いな」
辺りを見回し、鼻を鳴らして自慢げにエリオが言う。
しかしこれにはピーノとしても納得がいかない。
「もしかしてそれ、木を切ってる森も含めて言ってるの? だったらぼくのところだって負けてないから」
「いやいやピーノ、うちは山全部だぜ? さすがに勝てねえだろ」
「山全部って、それはいくら何でもずるくない? エリオのところとは別の家族だって同じ山で木を切ってるんだし。ほら、アントニオのおっさんとかカルロの爺ちゃんとか」
「しょうがないな、じゃあ分けるか。まさに山分け」
「うわ、くっだらない」
あまりにもつまらない冗談に、ついピーノも本気で顔をしかめてしまう。
何だよう、とエリオは口を尖らせた。
そのとき、近づいてきた前方の集団から敵意に満ちた視線が突き刺さってくるのを敏感に感じとる。この敵意には明らかに覚えがあった。
「はあ。やっぱりいるみたいだなあ、あのルカってやつ」
随分と間延びした声で確認してきたエリオへ、ピーノも「面倒くさいなあ……」とだけ応じる。
一面に緑が広がっている会場へ着くと、案内役の軍人は無言のまますぐに引き返してしまった。軍にはいろいろな人がいるんだなあ、とばかりに思わず二人は顔を見合わせた。
そこは短く刈りこまれた牧草地のような場所であり、ざっと見たところ百人は下らない数の少年少女たちが整然と列を作って並んでいる。地域の代表者ごとなのだろうか。
「適当にどこか後ろの方にいればいいんじゃない?」
「それもそうだな。用があれば向こうから呼ぶだろ」
ピーノとエリオは深く考えることなく列の末席に潜り込んだ。
そこからもさらに何人かが加わり、時折散発的な会話が聞こえてくるくらいの静けさの中でしばらく待つこととなる。
離れた場所からは相変わらずルカが憎悪と言っていいほどの敵意を剥きだしにして放ってきており、ピーノとしては最終選抜試験の開始前からすでにうんざりとした気分に襲われていた。
ようやく隊列の前方に一人の軍人が進み出てくるのを見て、これでようやく始まってくれるのだとピーノはほっとした。
だが次の瞬間、彼は驚愕することになる。
まだ青年であるその軍人の肌が褐色であったからだ。ここ旧都アローザにおいても、褐色の肌を持つ人間にはただの一人も出会えていない。
「エリオ、エリオ」
「どうしたよ」
横に並ぶ友人の脇腹を突き、小声でその事実を教える。
「あの人、〈シヤマの民〉と同じ肌だよ。褐色なんだ」
これにはエリオもかっと目を見開いて反応した。
話しかけつつもピーノはずっと青年軍人を凝視し続けている。黒い髪に褐色の肌、そしてどこか人懐っこそうな目。ハナや長老ユエ、そして気のいい他のシヤマの人たちとまるで同じ特徴なのだ。
一瞬、彼と視線が交錯したような気がした。わずかにたじろぎながらも、「そんなはずはない」と自分に言い聞かせる。向こうがただの一参加者であるこちらを気にかける理由などないのだから。
青年軍人は敬礼し、魅惑的な微笑みを浮かべる。
そして彼は、自らをニコラ・スカリエと名乗った。