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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
3章 スカリエ学校の子供たち
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流れ星が落ちる夜

 行きは落ちているのか滑っているのかさえもわからないくらいの速さで降りてきた道のりを、帰りはひたすら登っていかなければならない。

 夜の闇を抜けていくその途上、ピーノたちはずっと無言で歩き続けていた。会話も必要がないほどに二人は満ち足りた時間を共有したのだ。


 夢心地に似た彼らの沈黙が破られるきっかけとなったのは、夜空から流れ落ちていくたくさんの星たちである。最初は一つ、また一つと緩やかに、しかし次第に数え切れなくなるほどの星たちが地上目掛けて生き急いでいた。儚い光の線を描き、消えていく星々。


「本当に、特別な日だ」


 声の主はエリオだった。

 彼がこういった感傷的なことを口にするのはとても珍しい。

 そうだね、とだけ応じたピーノは足を止め、しばらくの間輝くような夜空を見上げていた。


       ◇


 羊たちはそれぞれ、いつものお気に入りの場所で眠りについている。

 簡素な柵の脇を静かに通り抜けていくピーノだったが、気配を察知したのか近くにいた一頭が目を覚ましてしまう。

 先ほどまでの星の輝きが失われた夜の闇の中でも、顔を上げた羊の瞳が横長になっているのが彼にははっきりと見えた。


「寝てなって」


 囁きよりも小さなピーノの声が通じたわけではないにせよ、聞き分けたように羊は再び微睡みへと戻っていく。

 家の手前にある、夜の番のための粗末な木組みの小屋にはやはり誰もいない。ウルス帝国の統治下になると知って、帝国兵による羊の盗難を恐れた祖父が慌ててこしらえたものなのだが、結局その必要はなかった。平時における彼らは軍の厳しい規律によって統制されているからだ。羊などを盗もうものなら即刻死罪となってしまうという。

 母も祖父もまだ起きているらしく、窓の向こうで蝋燭の火が灯されているのがわかる。ピーノとしても今から説教を受けるのは承知の上だ。


「ただいま」


 遅くなってごめんなさい、と玄関の戸を開けるなりまず頭を下げた。

 しかし椅子に浅く腰掛けた祖父はピーノを一瞥したきり、何も話そうとしない。母に至っては涙ぐんだような声で「おかえり」と迎えてくれる有様だ。


「──何かあったの?」


 さすがに様子がおかしい、というのは家にいなかったピーノにもわかる。

 ようやく祖父が口を開いた。


「おまえ、マヌエレのところの次男坊と一緒だったのか」


 エリオのことだ。ピーノは黙ったままで頷く。


「そうか」


 言うなり、祖父は長く大きく息を吐きだした。

 こんな姿の彼にピーノは見覚えがあった。父が事故死したと告げられた時だ。受け入れがたい現実をどうにか己に納得させようとしている、そんな仕草だと当時のピーノは感じていた。


「ああ、ピーノ!」


 感極まったような母が不意に強く抱き締めてくる。


「ちょっ、ちょっと、いったいどうしたのさ」


 そんな母を祖父がたしなめた。


「落ち着けペルラ、まずはこの子に話をせにゃならん」


 目元を拭いながら母がピーノから離れたのを見計らい、祖父は抑制の利いた声で話しだした。


「日没の少し前、ウルス帝国軍のそこそこ偉い兵士が部下たちと一緒に訪ねてきてな。よくはわからんが小隊だか中隊だかの長だと言っとったか。彼がわしらに告げたのは他でもない、『おまえを連れていくこと』だ。物腰こそ穏やかで丁寧だが、有無をいわせぬ口調でもあったよ」


「ぼくを? どうして?」


 ただの羊飼い見習いなのに、という思いを言外ににじませてピーノは答える。


「やつら、帝国全土から子供たちを集めているらしくてな。その大勢の中から優れた素質を持つ者を選抜し、鍛え、切り札として新しく創設される皇帝陛下直属の部隊へと育て上げるのだそうだ」


 蝋燭の炎だけが頼りの暗い室内で、壁へと映しだされた祖父の影が不規則にゆらゆらと揺れていた。


「帝国も必死だ。麓の商人に聞いたところじゃ、レイランド王国とタリヤナ教国の二大国を中心とする大同盟が成立したそうでな。すこぶる仲の悪い両国の間でまさか共同戦線を張られるとはウルス帝国側も想定していなかったらしい。だがそんなこと、わしらには何の関係もないんだがな」


 再び深いため息をついた祖父だったが、ピーノへと向き直って力のない笑顔を浮かべて言った。


「それでも、わしらはまだ幸運な方だ。たまたまおまえがマヌエレのところの次男坊と道草食っていたおかげで、その場で連れていかれずにすんだんだからな。こうしてともに別れの夜を過ごすことができる」


 見れば母は大粒の涙を流している。そして今度は柔らかく包み込むようにそっと両腕をピーノの体へと回してきた。

 選択肢は存在しない。ウルス帝国から皇帝の名によって下された命令へ逆らうなどまったく現実的でない以上、ピーノたち家族にできるのは残された時間を互いのために使うことだけだ。


 特別な日だ、とエリオの言った通りだった。

 この日、生涯を羊飼いとして穏やかに生きていくはずだったピーノのすべては変わってしまったのだから。

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