チェスターの憂鬱
「はっ、ざまあねえぜ」
惨劇の舞台となったロベール・メルラン所有の邸宅、その最奥にある広間にて、チェスターはある血塗れの死体を見下ろしていた。
右腕を失い喉を真横に切り裂かれ、恐怖が張り付いたような表情のまま絶命している者の名はデビッド・ダニング。かつてはレイランド王国軍において、わずかな期間ながらチェスターの上官だった男だ。
その当時から、ダニングは彼にとって憎しみを抱く存在でしかなかった。
大陸を揺るがす戦争が始まって間もなく、軍に入隊したチェスターは初々しい新兵としてレイランド北西部の国境部隊へと配属された。ただ国境とはいえ、ウルス帝国ではなく中立を保つ別の国とであったため、激戦地とはまるで異なる空気が流れていた。最前線となる基地も非常に簡素な造りだ。みすぼらしいとさえ言える。
自分の力で民を守りたい。そんな希望に燃えていた彼にとって、拍子抜けするほどに穏やかな毎日が続く。近隣の村人たちとの関係も良好で、いつしかチェスターもすっかりのどかな空気に馴染んでしまっていた。特に年齢の近かったフィオナという少女と親しくなり、同僚の兵士たちからもよくからかわれたものだった。
しかし時代は彼らにそのような日々を許してはくれない。中立だったはずの隣国が突如としてウルス帝国に降り、レイランド王国を急襲したのだ。
不意を突かれた国境部隊は大敗を喫し、かなりの地域を放棄して後退せざるを得なかった。フィオナたちが暮らす村もその中に含まれていた。
さほど時を置かずして、王国政府から領土奪還のための援軍が到着する。その部隊を率いていたのがダニングだ。チェスターたち国境部隊の生き残った面々は、歴戦の猛者であった彼の指揮下へと組み込まれた。
「貴様らのような逃げ帰るしか能のない役立たずのウスノロも、この俺が上手く使ってやる。ありがたく思え」
着任早々、威圧感を漂わせながらダニングは挨拶の場においてそう言い放った。
そして彼が一つの作戦を立案する。寝返ることのないよう敵勢力下に置かれた村々ごと焼き払って焦土化しつつ、後は数を頼みにした力押しで基地を奪還するというものだ。
チェスターからすればとても作戦と呼べるような代物ではなかったが、どうやらダニングという男は今までもこのようなやり方で戦果を挙げてきたらしい。民を守ることなど頭の片隅にもなく、部下である兵士だってただの消耗品。上官とするには最悪の人間だ。
到底受け入れられない、そう感じたのはチェスターだけではなかった。
彼の先輩兵士であり、周囲からの人望も厚かったアレックスが挙手をして異議を唱えたのだ。村人たちは守るべきレイランド王国の民であり、誇り高き王国軍が自ら手にかけるなどありえない、と。
「なるほど。勇気があるな、貴様は」
笑みを浮かべて歩み寄り、そう称賛したダニングだったが、次の瞬間には彼の拳がアレックスの顔面へとめり込んでいた。眉間を砕かれ、左目の眼球が飛びだしたアレックスは誰の目から見ても即死だった。
「で、他に意見のあるクズはいるか?」
部下を殴り殺したことなどまったく意に介した様子もなく、辺りを睥睨しながらダニングが問う。当然ながら答えられる者などいるはずもない。
己に力がなかったことをチェスターはただただ悔やむ。
ダニングの作戦は実行に移され、多大な犠牲を出しながらも支配下地域を回復することには成功した。もっとも、後にダニングは軍法会議にかけられる。アレックスの件と同様な行為を繰り返し、離反者が続出したためだ。こうして彼はその暴力性を高く買ってくれたメルラン一家入りと相成った。
フィオナの無事を祈りながらも流されるまま基地奪還作戦に従事し、燃えていく村々を遠目に眺めているしかできなかったチェスターの人生も大きく変わった。もはやレイランド王国軍に何の望みを持つこともなく、不正な利益を得るため物資の横流しに手を染め始めてしまう。
だがチェスターの心にあったのはひたすら空しさだけ、時折フィオナのことを思い出しては鬱血するほどに拳を握りしめるばかりだ。そんな中、彼はかすかな光さえ射さなくなりそうな人生のどん詰まりで、イザーク・デ・フレイという好漢と出会った。
「つまらない生き方をするくらいなら、うちへ来い」
イザークの短い言葉には引力があった。
大事なものを何も持っていなかったチェスターは、体一つだけでイザークの商会へと身を寄せた。そして過去を吹っ切るように猛烈に働きだす。
あるとき、働きぶりを評価されて出世の階段を上がりだしていた彼が、イザークに同行してスイヤールへと赴くことがあった。
「聞いたところによるとおまえ、その歳でまだ女を知らないらしいな」
いかん、それはいかんぞとイザークが激しく首を横に振ったのがきっかけだ。
半ば無理やりにスイヤールへ、それも娼館へと連れてこられたチェスターだったが、マダム・ジゼルの館と呼ばれるこの場所で彼は懐かしい人物と再会することになる。
六年ぶりに会った彼女は、もうフィオナという名前ではなくなっていた。