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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
9章 ぼくらの家
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その後について〈2〉

 血を流すセレーネの傍らで、ピーノがそっと彼女の左胸に手を添えていた。静寂が辺りを支配している。

 時間にすればどれほども経っていないのだろう。

 だがトスカにとっては、永遠よりほんの一つ手前ではないかとさえ感じられるほどの長さであった。


 セレーネを自らの手で殺める覚悟など、もう随分前に決めている。だというのにピーノはそれを良しとしてくれなかった。

 彼が何を試みているのかはすぐに理解できた。生命力の譲渡だ。あのニコラでさえも、そのような離れ業ができるなどとは一度も口にしていない。


 そんなことが、と半信半疑ながらもトスカはピーノの手元から目を逸らせずにいる。心のどこかに「彼ならば」という気持ちがあるのは間違いなかった。

 身勝手極まりないのを承知で「助けて、セレーネを助けて」と祈る。


 今さらになって震えだした体を必死に抑えつつ見守る彼女の視線の先で、セレーネの出血が明らかに少なくなっていく。

 しかし好転の兆しが表れたのも束の間、ピーノの側に異変が始まりだした。尋常ではない汗の量、かと思えば突然こめかみから血が噴き出す。


 慌てて呼びかけるもピーノから返事はない。顔を覗きこんでみれば、瞳が混濁しており焦点も定まっていなかった。

 トスカは迷った。このまま続けさせれば、セレーネだけでなくピーノも死んでしまうのではないかと。もしセレーネだけが助かったとしても、はたしてその結果を誰が受け入れられるだろうか。


「……やらせてあげて……」


 消えてしまいそうなほどか細い声にトスカも、同様に近くで見守っていたフィリッポも反応した。


「ピーノもずっと、後悔していたんだね。ごめんね……」


 両手をだらりと下げて跪いたまま、ハナという少女が声を殺して泣く。

 それでもまだ選べず、どうしていいかわからずにいたトスカだったが、「彼女の言う通りにしよう」というフィリッポに肩を叩かれた。

 そのまま彼は耳打ちしてくる。


「トスカ。きみに押しつけるようで悪いが、ピーノとセレーネを頼む。おれはまずこの子を逃がすよ。彼女の無事こそがピーノとエリオの意思だからね」


 体を離したフィリッポが、政庁に向けて顎をしゃくってみせる。


「もしかしたら他の連中も異変を察して駆けつけてくるかもしれない。ただしセレーネに関与しないって約束を向こうが破ろうとしたなら、その時はダンテもこっちへ付くことになっているよ。さすがに相手だってきみら二人を敵に回すほどバカじゃないはずだ」


 スタウフェン商会も味方してくれるだろうしね、と片目を瞑る仕草を見せるが、今日にかぎってはトスカにも頼もしく映った。

 有無を言わせぬ早業でハナを強引に担ぎ上げ、「いくよ」と彼が出立を告げる。


「おれはフィリッポ。ピーノとエリオの親友だよ。彼らのためにも、今はおとなしく身を隠してくれ」


 何も答えようとしないハナだったが、それをフィリッポは了承と受け取り、広場の石畳を蹴って駆けだした。二人の姿があっという間に路地へと消える。


       ◇


 ハナさんは正しかったよ、とトスカが話を続けた。


「間もなくセレーネの出血は完全に止まって、一命をとりとめた。奇蹟を目の当たりにした瞬間だったよ」


 そう聞かされても、ピーノとしてはまだ安心できないでいる。

 セレーネの負傷個所が白い結晶となりつつあったのは自身の目で見た。本当に彼女は無事だったのだろうか。

 だがトスカの返答は「もちろん」と単純明快であった。


「対照的にピーノはぴくりとも動かなくなったから、わたしもちょっと取り乱してしまったんだけど」


「結局は眠ってただけだったんだね……」


 ばつの悪い思いとともに、ピーノが軽く肩を竦めた。幼いレベッカには長い話がまだ難しかったのだろう、彼の膝の上で寝息を立てていた。

 こくりと頷くトスカだったが、その目は涙で潤んでいる。


「ありがとう、命がけでわたしの友達を助けてくれて。わたしも助けてくれて。本当にありがとう。ずっとずっと、お礼を言いたかったの」


「別に大したことはしてないんだけど……それよりも」


 照れくささのあまりトスカの泣き顔を正視できず、ピーノは天井を仰ぎ見るような姿勢でさらなる続きを促した。


「セレーネのその後と、ナイイェルの話を聞かせてほしい」


「あ、その二つは一緒だよ」


 クロエからの思わぬ返事に、ピーノもつい口から「んん?」と妙な抑揚の声が漏れてしまった。


「いや、さすがによくわからない。どういうことなの?」


「だからその、セレーネっていう人にくっついてナイイェルも、タリヤナ教国へ行ってしまったの。こっちに戻ってこられるかどうかも定かじゃないんだってさ」


「ナイイェルが? いや待って、その前にセレーネの処遇はどうなってるの?」


 彼女と最後に交わした会話はピーノも覚えていた。

 事前の取り決めで、すべてに片がつけばタリヤナ教国へ赴くことになっていたピーノだが、ナイイェルはそんな彼に同行すると宣言していたのだ。


「セレーネはね」とトスカが涙を拭いながら話しだす。


「ニルーファル様に助けられた形になったよ。昏睡状態になったピーノを見て、いち早く声を上げたのがあの人だった。戦争犯罪人であるセレーネの身柄はタリヤナ教国で預かる、って。多国間の法廷へ持ちこませないためにね。当のセレーネも、抵抗する意思はなく無条件で受け入れてくれたんだ。もちろん平和条約も批准されたよ」


 そういうことか、とピーノにもようやく状況が呑みこめてきた。


「ぼくが果たすはずだった役割を、とっさの判断でセレーネに振ったんだな」


「うん。でも、セレーネに接しているニルーファル様からはそういった打算めいたものはあまり感じられなかったよ。優しい……と表現するのはちょっと違和感があるけど。だからわたしも受け入れた。彼女の左胸に小さな白い結晶がそのまま残っているのだって、タリヤナ教徒から見れば吉兆みたいだから」


 クロエも「大丈夫だよ」とトスカに賛同する。


「だってナイイェルが一緒なんだもの。わたしには全然、何の相談もなく、勝手に一人で決めちゃったんだけどね!」


「えー。クロエさん、謝るナイイェルさんに向かって『あなたの友人であることを誇りに思う』って、ぼろぼろ泣きながら言ってたのに」


「ぎゃあ! 何でそれをピーノの前でばらしちゃうの!」


 ピーノを挟んで二人の少女が賑やかにやり合っていた。

 しばらく眠っている間に随分と仲良くなったんだなあ、と微笑ましく思いながらも、まだ判然としない部分もある。


「彼女の決断に対して感謝はしたいんだけど、とはいえわざわざナイイェルが同行する必要はないんじゃないかなあ」


 何気なく発した言葉だったが、両脇の二人は素早い反応を見せた。


「やっぱり気づいていなかったんだ……。ナイイェルの言った通りだよ。信じられない、もはや罪」


「だめだめ。ピーノはその手のことにとびっきり疎いんだから。じゃなければ、とうにわたしの想いにだって何らかの答えを出していたはずだもの。ねえ?」


 二人から圧力がかかる。特にトスカは心なしか、以前よりも押しが強くなっているように思えて仕方なかった。


「ねえ、と言われましても……」


 妙な敬語になりながら、ピーノは言葉を濁す。

 すぐ隣で呆れ顔のクロエが、「あのねえ」と幼い子供に言って聞かせるような口調で語りだした。


「ナイイェルはね、きみのことを好きだったの。それ以外に何があるって考えてたのよ、まったくこのお子様は」


「……あのさ、そのフィリッポみたいな言い方は勘弁してくれる?」


 しかしピーノの懇願にもクロエは聞く耳を持たない。


「まあ、ナイイェルにも誤解されやすい部分はあったんだけど。ピーノに対してはわりと辛辣な態度だったし。でもね、セレーネって人がピーノの代わりにタリヤナへ連れて行かれることになって、ニルーファル様から以前の契約の解消を通告された時。あの子、『同行する相手が変わったからといって、自身の言葉を違えるつもりはありません』って即答したのよ」


 クロエの声がほんのわずかに湿り気を帯びていく。


「ピーノの古い友人なら、わたしの友人でもあるからぜひ助けになってあげたい。理由を問い質したら、ナイイェルはそう言って笑ってたのよ。そんなの、責められるわけないじゃない」


「見知らぬ異国の地へ連行されていくセレーネにとって、ナイイェルさんの存在がどれほど心強かったか」


 穏やかな口調で今度はトスカが繋いだ。


「先日スタウフェン商会によって届けられた、セレーネからの短い手紙にもナイイェルさんへの感謝が綴られていたんだよ。軟禁状態であっても、今はそれくらいの自由は認められているみたい」


 気丈に振る舞うクロエも言う。


「ナイイェルはナイイェルで、ニルーファル様の秘書見習いみたいな役職をもらったみたいなんだもん。タリヤナで出世なんかしようものなら、もうスイヤールへは戻ってこられなくなりそうでやだなあ」


 拗ねているようにも、自慢の友人を誇らしげに語っているようにも聞こえた。

 トスカも「ありえそう。ナイイェルさん、将来はタリヤナ教国で登り詰めたりして」と冗談めかした合いの手を入れる。


 彼女たちと話しているうち、ピーノにもこれから自分がどうしていきたいのかが朧気に像を結び始めていた。

 ずっと前にエリオを失って終わりを迎えたつもりでいたピーノの旅は、ただ小休止していただけだった。終わってなどいなかったのだ。

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