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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
9章 ぼくらの家
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長い不在

9章は全6回、エピローグとなる章です。

 これは夢なのだ、とピーノにもすぐにわかった。


「おーすピーノ、久しぶり。客を迎えるにゃ少々広さの足りない我が家だが、適当にその辺へ座ってくつろいでくれ」


 満面の笑みを浮かべて肩を叩いてくるエリオと、その傍らには小さな子供と手を繋いだハナがいる。青い耳飾りが彼女の左耳で控えめに光っていた。

 三人が揃った姿は絵に描いたような幸せな家族そのものだ。


「──も前回会った時よりかなり大きくなってるだろ」


 ついこの間歩けるようになったんだぜ、とエリオは子供の名前を呼びながら指差す。けれども名前の部分だけがなぜかかき消されてしまって、どうしても聞き取ることができなかった。


「ハナに似てるよな? 特に目元のあたりがさ」


「どちらかと言えば、あたしはエリオに似てると思うんだけど」


 ピーノはどっち、と二人が詰め寄ってきた。

 こういう面倒な場合はさっさと話題を変えてしまうにかぎる。


「あーそうそう、手土産を預かってきてるんだよ」


 ニコラ先生から、と口にしたピーノは自分自身の言葉にひどく驚いてしまった。

 どうやらこの夢の中では、エリオだけでなくニコラも生存しており、ハナも含めて良好な関係を築いているらしい。

 まったく、あきれるほどに都合のよすぎる夢だ。


 そんなはずがあるものか、と動揺するピーノは、手にしていたニコラからの預かり物を落としてしまう。包みの中身はどうやら赤葡萄酒だったらしく、派手な音を立てて割れてしまった。

 深い赤色の酒が床に広がり、子供は泣きだす。


 どうしようと思うよりも先に、割れた瓶の破片が鈍く光っているのに目を奪われた。その場にしゃがみこみ、一つずつ丁寧に拾っていく。まるで宝物を扱っているような手つきで。

 最後の欠片を拾おうとしたとき、ピーノの天地が逆転してしまった。

 赤葡萄の酒がこぼれた床を見つめていたはずなのに、いつの間にか彼の手は天井へ向かって伸びていたのだ。しかも寝転んだ姿勢で。部屋だって違う。


 また別の夢を見ているのだろうか、とピーノは訝しんだ。

 しかしこの室内にはもう一人、別の子供がいた。先ほどのエリオとハナの子供よりは少し年上の女の子である。

 赤い髪の毛をしたその子が慌てて廊下へと駆けだし、大きく息を吸い込んだ。


「起きた起きた起きた、ピーノが起きたあ!」


 精いっぱいに喉を震わせた叫び声が響き渡り、いくつもの扉が一斉に開く音も遅れて聞こえてきた。


       ◇


 どうやら今は夕暮れ時らしく、窓から射しこんでくる陽光によって白いはずの寝具も橙色に染まっている。

 ピーノのいる狭い部屋があっという間に人で溢れ返ってしまった。どの顔も濃淡の差はあれど橙一色だ。


 聞けば二百八十四日間もの長きに渡って、ピーノはこんこんと眠り続けていたのだという。ただの一度も目を覚ますことなく。

 目元を拭っている者がいるかと思えば、喜色満面の者もいる。まだぼんやりと靄がかかったままの頭で、何となく申し訳ないような気持ちになる。


「もう、心配したなんてもんじゃなかったんだからね」


 涙目でクロエが怒れば、トスカは「よかった、本当によかった」とひたすら繰り返していた。


「寝ぼすけピーノ!」


 ちょっとむくれ気味のレベッカも、横臥しているピーノをぽすぽすと何度も叩いてくる。

 記憶にある姿よりも少し背が伸びている彼女だが、その幼い仕草はよく見慣れたもののように思えた。


 早く体を起こさなければ、とピーノは全身に力を入れた。寝転がったままの姿勢ではこんなにも目覚めを喜んでくれている彼女たちに対して失礼だ。

 ピーノの意図を素早く察したトスカが手を差し伸べ、介添えをする。


 どうにか起き上がり、ぎこちない動作で寝台の縁へと腰掛け直したピーノだったが、両足を床につけて一息入れた瞬間に理解した。

 もう、肉体の内から生命の力を引き出す〈門〉を開くことはできないのだと。


 池とも呼べぬほど小さな水溜まりであっても、底から泉が湧くかぎり枯れたりはしないものだ。しかし湧水が尽きてしまえばどうか。

 答えは一つである。最後の一滴が消えたとき、かつて水源だった場所はただの大地となる。見方によっては土に還るとも言えるだろう。


「どしたの?」


 ピーノの膝に伸し掛かりつつ、心配そうにレベッカが顔を覗きこんできた。

 彼女の赤い髪をくしゃりと撫で、笑いながらピーノは答えた。


「またみんなに会えてよかったなあ、って思ってたんだよ」


 声の出し方、話し方を忘れていなかったことにほっとする。

 自分の残りの人生がどれくらいなのかは見当もつかない。だからこそ、どれほどわずかな時間であれレベッカの表情を曇らせたくはなかった。

 彼女たちの笑顔こそ、ピーノにとって生きる糧なのだから。

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