奇蹟は自ら起こすもの
猛烈な速度で激突したためその衝撃は凄まじく、セレーネとトスカはともに弾き飛ばされてしまう。
瞬間、ピーノの怒号が政庁前の広場へ響き渡った。
「フィリッポぉ! おまえ、何してたあ!」
すぐに駆けつけたフィリッポは「すまん、本当にすまん!」と詫びながら、トスカの状態を調べている。どうやら目立った外傷はないらしい。
一呼吸置いて、ピーノも冷静さを取り戻した。
「いや違う。怒鳴ってごめん、今のはぼくの失態だったのに」
「そんなのはどうでもいいって。とにかく君はセレーネを見てくれ」
少し離れた場所で仰向けとなって横たわっているセレーネだが、その周囲には早くも血溜まりが広がりつつあった。
「何でセレーネがあたしを……?」
傍らで体を震わせたままのハナに「そこで待ってて」とだけ告げ、ピーノは早足でセレーネのところへと向かう。
近くで見れば一目瞭然だった。彼女はもう助からない。
セレーネ自身も死が近いのを悟っているのか、その表情は随分と穏やかだ。
ここでようやくピーノも一つの可能性に思い至る。
あえて彼女がハナを巻き添えにするような攻撃を仕掛けてきたのは、どうにかしてトスカをこの場へ引っ張りだしたかったからではないのか、と。
そう、彼女の行動がいつぞやのルカ・パルミエリと被ってしまうのだ。まるで焼き直しと言っていいほどに。
もちろんただ単にピーノの隙を突いただけなのかもしれないし、戦う意欲を失ったように見えたハナを裏切り行為と捉えて始末したかったのかもしれない。真意はセレーネのみぞ知る。
フィリッポに肩を借りたトスカが遅れてやってきた。
親友に刺された格好となったセレーネは、意外に感じられるほど柔らかな笑みを浮かべて語りかける。
「ふふ……来てくれると思ってた」
「そりゃ、長い付き合いだから」
「もう疲れちゃった。先にヴィオレッタのところで待っているわね」
「まさか。一緒に付き合うよ」
自決を示唆する返答をしたトスカに対し、セレーネがわずかに眉をひそめる。
「そんな気遣いは結構です。五十年後くらいにまた会えれば」
「あなたを一人で逝かせるわけないじゃない。それに、わたしには今後『親友を自らの手で殺した女』という汚名がずっとついて回る。こう見えて小心者だから、とてもじゃないけど耐えられそうにないよ」
「そうかしら。極悪人を討ち果たした英雄として大手を振って生きればいいのに」
「冗談もほどほどにね。続きは後でゆっくり聞くから」
そう言って会話を終わらせたトスカが、セレーネの左胸に横から刺さったままの短剣を抜こうとする。抜けばさらなる出血によってセレーネの死が早まるのは、当然トスカにだってわかっているはずである。
しかしそれをピーノが阻んだ。
「二人ともそこまで。まだ勝負の途中だよ。このままセレーネを死なせてしまったら、その時点でぼくの負けだ。でも、まだ負けてない」
戦闘開始前の条件では、トスカが乱入してきた時点でピーノの敗北となるはずだが、そこはひとまず措いておく。
「どいつもこいつも、そんな簡単に死ねると思うなよ。どれだけこっちの手を振りほどこうとしたって、力ずくで引き戻してやるから」
そう言い放って、いきなりピーノはセレーネの服を引き裂く。まだ短剣が突き刺さっている、真っ赤に染まった部分の布地をごっそりと剥ぎ取った。血を吸ったせいでどろりと重い。
セレーネの左胸、控えめな乳房が露出してしまうが、さすがに今はそんなことに頓着している場合ではない。
「あら、情熱的ね……」
力なく軽口を叩くセレーネを無視し、右手を彼女の負傷個所へと添える。
糸よりもさらに細い、目に見えないほどの細い道を思い浮かべ、全神経を集中させた自分の右手とセレーネとを繋ぐ。
そして怪訝そうなトスカへ「いいよ。剣を抜いて」と短く指示した。
これからピーノが試みようとしているのは、生命力の移動だ。
膨大な生命力を武器にしたエリオが、ピーノ同様の〈超速回復〉を以てしてもニコラへわずかに及ばなかったとするならば、そこには口外されていない何かしらの秘密があると考えるのが妥当だろう。
確信するには至らなかったものの、ピーノには一つの仮説があった。ニコラは周囲の人間から生命力を奪うことでエリオとの壮絶な長期戦に耐え切ったのではないか、というのがそれだ。
もしこの仮説が正しいのであれば、逆も成立するはず。ピーノはそう読み、ぶっつけ本番であっても躊躇いはなかった。やらなければセレーネが死ぬのを待つだけなのだから。そうなってしまえばトスカも必ず後を追うだろう。
とはいえ成算の心許ない、分の悪い賭けなのは百も承知だ。ニコラの最期がどうだったのか、忘れることなどできるはずもない。
ニコラの異形化が何に起因していたのか。ピーノは「異なる個体の生命力はそもそも融合しづらいものではないか」とみていた。他者の生命力を急激に奪い取ったことで、ニコラの肉体は急激に変貌したと考えれば説明はつく。
自分ならば、とピーノは思う。
「生命の力を恐ろしく精緻に操り、制御できる」とその才能を評してくれたのは他ならぬニコラだった。
セレーネを異形化させるのは、このまま死なせるよりもひどいことだ。
そう理解しているからこそ命の流れる道筋を細く一定に保ち続け、ほんの少しずつセレーネへと受け渡していく。決して途切れさせてはならないその作業はとてつもない集中を要求した。
周囲の声はもう耳に入らない。顔のどこかで血管が破けるのがわかったが、集中の邪魔をするほどではなかった。
ただ、どこまでこの状態を維持できるのだろうか。
時間の経過とともに、自分の肉体を形作る境界線が曖昧になってきているのを感じ取り、さすがに制御も精密さを欠いてきた。
不安は今まさに的中しつつある。セレーネの傷口の大部分は塞がってきたものの、生物の肌とはまったく質感の異なる白い結晶が出現し始めていたのだ。
「頼むよ、先生」
ピーノは意識の片隅で懸命に祈る。
「教え子を助けるためなんだから、一度くらい力を貸してよ」
しかし彼の脳裏に浮かんだニコラは笑って首を横に振るばかりだ。
「奇蹟は自ら起こすものだよ、ピーノ。大丈夫。きっと君ならやり遂げるさ」
幻だとしても懐かしささえ覚える励ましの声が遠くに聞こえ、背中を押されるようにしてピーノはなおも全身全霊でセレーネを救護する。
自身の命と彼女の命とを天秤にかけるなら、迷わず後者を選ぶ。
8章はここまで。次章で完結です。