エリオがいない世界
ハナはこれまで、ピーノとまともに戦った経験などない。せいぜいエリオを含めた三人でじゃれ合っていた程度で、そんなものは遊びの範疇だ。
もちろん彼の強さは知っていたし、実際に目撃してもいる。それでも初めて敵として対峙するピーノの強さは衝撃だった。
幾度もハナが炎の柱を発現しようと、もはや彼にはかすりもしない。最初の一回だけはあえて受けたというのが嫌というほど理解できてしまう。
ただそんなピーノと、ほとんど五分に近い状態でセレーネは渡り合っている。彼女もまた充分に化け物の部類だ。
目にも留まらぬほどの速さで斬撃を繰りだし、受けに回るしかできないピーノをじりじりと押し込んでいく。
しかしどういうわけか、優勢になりつつあるように見えたセレーネは大きく後ろに飛び退いていったん距離をとった。
「すごいね、あのピーノと互角だよ」
一息入れているセレーネに、ハナはそう話しかける。
けれども彼女の反応は芳しくなかった。
「互角なもんですか。ほんっとに小憎らしいったらないわね、あの子は。こちらの攻撃のすべてを的確に防いでいるのよ」
このままでは体力を無駄に消耗するだけね、とセレーネがぼやく。
とてもではないが、ハナにはついていけない領域での話であった。
以前に父の直接の仇であるニコラ・スカリエという男が言っていた。忘れもしない、ウルス帝国の宮殿謁見の間でのことだ。〈シヤマの民〉が使う舞踏魔術は物珍しいだけであり実戦の役には立たない、と。
当時は「一族の裏切り者がほざきやがって」と苦々しく思ったハナだが、あれが正鵠を射た論評だったことを今さらながらに痛感する。
彼女だけが、この場へ立つには単純に力不足なのだ。
本来は祈りを捧げ自然と調和するための舞踏を、そのまま他者への攻撃へと転じてしまった自分の思い上がりが恥ずかしくてたまらなかった。
けれどもセレーネの考えは違っていたらしい。
「ハナ、ちょっと相談なんですけど」
小声で持ちかけてきた彼女の提案は、「最も破壊力のある炎を陽動に使おう」というものであった。
「彼に先ほど見せたような常軌を逸した回復力があるかぎり、何度も何度も致命傷を与えなければなりません。おそらく、そこが落とし穴なのです」
防戦に専心しているピーノからは当然、仕掛けてこない。
なのでハナにも「ええ? どういうこと?」と聞き返すだけの余裕はある。
「落とし穴って言ったって、結局は致命傷を狙いにいくしかないんじゃないの?」
「いいえ」
きっぱりとセレーネが否定した。
「それはあくまで過程の最終局面、詰めの段階での話。こちらが手っ取り早い大技で決定打を与えたくなるのを見越して、ピーノはこの戦闘をのらりくらりとかわしながら優位に運ぶつもりです。心を折って戦意を喪失させる、というのはつまり体力切れを狙っているのと同義でしょう」
戦闘開始前のピーノの発言を引き合いに出し、さらに彼女は続けた。
「相手の誘いに乗らないことは基本です。一気に炎で決めようとはせず、あえて攪乱に使ってみるべきかと。具体的には、炎の光や煙で彼の視覚をほんのわずかな時間でも奪うことができれば、私が一撃を入れられる隙も生まれると思うのよ。そういう展開になれば、次はあなたが間を空けず風の刃や土の槍で追撃してほしい」
かつてヌザミ湖畔で静養していたときの会話をハナは不意に思い出す。
エリオとピーノに対し、イザークが何気なく訊ねたことがあったのだ。
「おまえら、どんな敵がいちばん嫌なんだ? 単純に素の力が強いやつなのか、搦め手でくるやつなのか。色仕掛けは……ガキどもにはちと早いな」
この質問に二人は顔を見合わせ、そして同じ答えを出した。
「場数を踏んで戦い慣れたやつってのは、それだけでひどく厄介だよ」と。
力の差があろうとも、経験を積んでいる者に対しては警戒を怠らない。
ハナからすれば、むしろ彼らこそ年齢に似合わぬ老獪さを備えているように思えて仕方なかった。普段は年相応に幼い面もたくさん覗かせているというのに。
ピーノはきっと、こちらがどんな戦い方をしようと必ず対応してくる。そうハナは確信するしかなかった。
あのニコラという男は、呪いも同然の畏怖すべき強さをエリオとピーノにもたらした。間違っても祝福などではなく、呪いだ。
「では、今言った手筈でいいですね、ハナ」
同じくニコラの教え子であるセレーネが確認を求めてきた。
自分一人だけが恐ろしく場違いなのだと改めて認識しつつも、ハナにはもはや選択肢さえ残されていない。
互いの傷を舐めあった仲であるセレーネを支え、愚直にピーノへ攻撃を仕掛けていく。たとえ延々と続く戦いの果ての敗北が予定調和であろうとも。
そうなればハナとセレーネは罪人として投獄され、処刑を待つだけの身となる。もしかしたらピーノは庇うつもりかもしれないが、別にどちらでもいい。生き永らえたところで望むことなど何もないのだから。
ハナにとって、エリオのいない日々は長すぎた。