約束、提案、あるいは脅迫
「とうとう始まっちまったなぁ」
窓際で、腕組みをしたダンテが外の様子を眺めている。
平和条約の調印式のために用意された広間が静かなせいもあって、思いのほか彼の声がよく響いた。
ダンテからいちばん近いところに立っていたイザークも、「ああ。後はピーノに任せるしかない」と応じた。意図してなのかどうかはわからないが、レイランドにタリヤナ、それとスイヤールの各代表団は等間隔に離れた位置で陣取っている。ただし全員が立ち上がったままだ。
一介の商人でしかないと自認しているイザークには、国家同士の晴れ舞台といっていいこの場に参加するつもりなど毛頭なかった。
しかしキャナダインからのたっての希望となれば話は別だ。加えて彼は現在、再び倒れて病床にある。そもそもが大病を患っていた上、長旅の強行に連夜の交渉ときているのだ。やはり無理がたたったのであろう。
ならばやむなし、と要請を受けたイザークは、スイヤール政府に連なる立会人としてここにいる。レイランド王国は当然として、タリヤナ教国からも彼の出席に異論は出なかったという。
大陸の命運は両大国による平和条約の成否にかかっているが、まだ式の開催には至っていない。待機である。帰趨を決するのも結局はピーノの戦い次第なのだ。
先行き不透明な状況でただひたすら待つ、という行為は相当な忍耐を要する。そりゃあ口も重くならざるを得ないだろうさ、とイザークは一人達観していた。
ダンテはといえば、外で繰り広げられている戦いを目で追いながら、緊張感漂う空気など知ったことかとばかりに「適当に飲み食いしながらのんびり待とうや」と場違いな提案をしてくる。
「ここまで来たら、部外者がじたばたしたってしょうがねえもんな」
この発言に対して真っ先に過敏な反応を示したのは、やはりレイランド側のボイド外相代行であった。
「部外者……? 大陸の行方を左右するこの局面にあって、我々が部外者だと?」
「あん? 不服かよ、ボイドのおっさんよお」
相変わらずの挑発的な物言いだ。いくらセス教の修道士になったとはいえ、人間の根っこというものはそうそう変わりはしない。
多分に呆れを含んだイザークの視線の先で、ダンテが窓枠を叩く。
「おら、こっちに来て見てみろや。正直、おれなんかとピーノじゃ格が違う。セレーネともう一人の踊っている女、あいつらの息の合った猛攻をおれが防げるとは思えねえ。ピーノの立っている場所こそが最前線なんだよ、おっさん」
「ならば今すぐ、有利な内に君もあの戦いへ加勢するがいい! 相手が正面からやってきてくれたのだから、勝機を逃さず畳みかける。どんなバカにでもわかる簡単な理屈ではないか!」
今度は拳を振り上げてボイドが熱弁を振るう。
そんな彼の態度とは対照的に、穏やかな口調で発言したのはタリヤナ教国のニルーファルだった。
「ボイド殿、それではピーノくんとの約束を反故にすることとなってしまいます」
「そりゃあなた方からすればそうでしょうとも。彼が手に入るとなれば、あんな無茶な約束だって交わそうというもの」
自身の身柄をタリヤナ教国へ預けて戦力の均衡を図る代わりに、ピーノはいくつかの条件を両使節団に対して提示した。イザークはそう聞いている。
まず一つめ、スイヤール市民は一人の例外もなく屋外へ出ることを許可しない。警備の兵士はそのために配置すること。
二つめ、調印式を囮とすることにより、予想され得る戦場を限定する。
三つめ、戦いのすべてをピーノへ一任すること。
四つめ、人的被害なく事態が収束すれば、そのときはハナとセレーネのこれまでを一切不問にすること。
よくもまあ、ここまで無茶な条件を呑ませたものだと感心するほどだ。
渋面を作ったままのボイドの心情はイザークにも理解できる。先ほどニルーファルが口にした約束という語句よりは、脅迫と呼んだ方がよほど正確だ。
けれどもボイドは致命的なほどに、ピーノのことをまるで理解できていない。
「いいですか、彼が戦っている相手は犯罪者なのです。それも戦争犯罪だ。いかにピーノくんが先の大戦において功績大なりとはいえ、こちらがそこまで譲歩する謂れはありますまい」
だからこのような言葉も平気で口走ってしまう。
「わかっちゃいねえなあ」と小馬鹿にしたのはやはりダンテだ。だがイザークも同感だった。そう、ボイドはわかっていない。
相対するニルーファルは、無表情のままで静かに首を横に振った。
「いいえ。事はもう、そのような段階にはありません。仮にボイド殿の案に従った場合、我々はより恐ろしく強力な敵を生み出してしまうだけですので」
その通りだ、とイザークも小さく頷く。
ピーノから見れば絶対に納得できない結末を迎えた場合、局面がどう推移するのかはを予測するのは困難である。最悪、今のハナとセレーネの立ち位置にピーノが収まっても何ら不思議はないのだ。
ピーノが積極的な関与を決断し、動きだした時点で彼に命運は委ねられていた。
ダンテもニルーファルの意見に「タリヤナの人、あんたは見えてるねえ」と賛同し、補足を加える。
「いいかボイドのおっさん、よく聞いとけよ。勘違いしてもらっちゃ困るんだが、おれは別にレイランドへ付いたわけじゃない。あくまでキャナダインの爺さん個人へ義理を果たしているだけだ。爺さんが死のうがどうなろうが、意思が継がれていくかぎりは必ずな。だがピーノを敵に回してしまう選択をするってなら話は別だぞ。おれはあいつに付くし、たぶん他の仲間もな」
「そうなってしまえば、今度はまた別の形の戦争が始まりますな。国家対国家ではなく、非対称で新しい形のね。軍隊はどこへ攻め込めばいいのか皆目わからず、一方で王族の方々はいつやってくるともわからぬ暗殺に怯え、眠れない夜を幾度も過ごされる羽目になるでしょうね」
ここぞとばかりにイザークもダンテに話を合わせた。
マダム・ジゼルの館の女たちをとても大切にしている今のピーノが、そこまでやるとはさすがに考えていない。あくまで可能性の一つである。
どすん、と音を立ててボイドが手近な椅子へと腰掛けた。
「参ったな。王家の危機を持ちだされては反論のしようがない」
大きなため息を一つ吐き、再びニルーファルへと鋭い視線を向けた。
「ピーノくんの提案を受け入れるしかない、その旨は私も先刻了承している。だというのに蒸し返したことについては心から詫びねばなりますまい。だが今一度、タリヤナ教国へ問わねばならないことがある」
伺いましょう、とニルーファルが即座に応じる。
「ではお聞きしますがニルーファル殿、この先あなた方が彼を受け入れたとして、実際に制御下へ置くことができるのだろうか。できないのであれば、今回の平和条約の根底が崩れ去ってしまいますぞ」
我が子も同然なピーノの人となりをよく知るイザークからすれば、「バカなことをおっしゃるものだ」と一笑に付したくもなるが、理屈の上だとボイドの疑念はもっともである。事実、ピーノの動向によって現在の情勢が大きく左右されているのだから。
ピーノも含め、ウルス帝国の亡霊のごとき元〈名無しの部隊〉の処遇をどうするかというのは、一概には答えを出せない難しい問題であろう。
しかしニルーファルに慌てる様子はまったく見られない。
「その点につきましてはご心配なく。こちらも手は打ってありますよ」
彼女の怜悧な横顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「彼とごく親しい関係を築いている少女に、我がタリヤナ教国への同行、および長期の逗留を了承してもらっております。大切なのはお互いの信頼ですから。セス教を信奉される方々はどうにも発想が力押しでいけませんね」
意趣返しのような皮肉を滲ませてニルーファルが言った。
思えば彼女とキャナダインが両使節団の代表だったことで、平和条約の調印式までどうにかこぎ着けることができたのだ。おそらく次の機会はもうないか、あったとしても相当に先だ。
「本当に頼むぞ、ピーノ。見守っていてくれよ、エリオ」
神への祈りとは縁遠い生涯を送ってきたイザークだが、二人の息子への真摯な想いは、他者であればまぎれもなく祈りと呼ぶはずの行為であった。