煽る、煽る
スイヤールの象徴である大聖堂の鐘楼がセレーネの剣によって両断され、あっけなくその輝かしい役目を終えた。
この高さから落下したとあって耳をつんざく音、大聖堂ごと揺らしているような振動が襲ってきたのに加え、少し遅れて粉塵がもうもうと舞い上がる。
それほどの出来事が起こっても、一向に眼下で人が集まってくる様子はない。警備兵たちも整然と持ち場を守っているようだ。
混乱に乗じて政庁襲撃、という策はこの時点で消えた。
「無反応というのも寂しいものだわ」
少し唇を尖らせたセレーネだが、本気で口にした言葉ではなさそうだ。ハナと同じく、あくまで冷静に周囲を観察している。
煙も晴れてきた広場の中心には相変わらずただ一人、ピーノの姿だけが見えていた。結局、彼を避けては通れない。
依然として状況に変わりがないのを確認し終え、どちらからともなくハナとセレーネは顔を見合わせた。
切りだしたのはセレーネの方だ。
「じゃあハナ、行きましょうか。主賓といえどあまり遅れるのもね」
「主賓?」
「私たちのことよ」
そう言って彼女はいきなりハナを抱きかかえる。
「わ」
「喋らないでね。舌を噛むわよ」
そして一瞬の躊躇もなく、大聖堂の屋根を蹴って宙へと飛びだした。
まるで自分が空に浮いているような錯覚を起こすが、こんな芸当は体内に眠っている生命力を身体能力へと変換できるセレーネがいればこそだ。
事もなげに広場の石畳へと着地し、ハナはそっと降ろされる。
ようやく表情がわかる距離まで近づいたにもかかわらず、ピーノはまだこれといった反応を見せていない。それはつまり、予想外ではないということだ。
ピーノにはあのイザーク・デ・フレイがついている。スタウフェン商会を率いる彼の情報収集力ならば、セレーネだけでなくハナがやってくることまで想定していたとしても何らおかしくはなかった。
ならば、と腹を括ってハナも大胆に歩み寄っていく。セレーネは何も言わず歩調を合わせてついてきた。
二人の足が止まり、見計らっていたかのように白々しくピーノが言う。
「久しぶり。元気そうだね、二人とも。安心したよ」
だが白々しさならセレーネも負けていない。
「そう言うあなたもお元気そうで何よりね。ところで独りぼっちなの? 愛しのトスカはいないのかしら」
「今は席を外してもらってる。後で会っていけばいい」
「後で、ね。どういう意図なのか、差し支えなければ教えてほしいのだけれど」
「意図も何も、言葉の通りだよ。きみたちがぼくと戦うつもりなら、ぼろぼろに負けた後で同じ食卓を囲んで旧交を温めればいいと思ってさ」
「はッ」
セレーネの態度が急変する。
「傲慢、傲慢、傲慢! あなたのそういうところ、今にして思えばニコラ先生にそっくりなんだわ!」
「そうかな。本当のことを言っただけなんだけど、まさかぼくに勝てるとでも? あのさあ、冗談ならもっと笑えるやつにしなきゃ」
「ほら、そういうところよ!」
苛立ちを抑え切れずに叫ぶセレーネだったが、ピーノはまったく意に介していないようにハナの目には映った。
そんな彼に違和感はある。ハナの知るかぎり、ピーノは他者の神経を逆撫でするような言動を繰り返して何とも思わぬ性格では決してない。むしろ逆だろう。
ハナとエリオがしょっちゅう言い争いをしていても、本気の揉め事にならぬよう気を遣って仲裁に入っていたくらいなのだから。
いつ暴発してもおかしくなさそうなセレーネからゆっくりと視線を外し、ピーノがハナへ向き直った。
「ハナはさ、何でこんなところへのこのこやってきたの?」
その表情から彼の真意を窺い知ることはできない。
気圧されてなるものか、とハナは鋭くピーノを睨みつけた。
「おしゃべりをしに来たんじゃないのは確かだよ。とっととそこを──」
「ユエ婆ちゃん、あれだけ真剣に言ってたよねえ!」
ハナの言葉を最後まで聞こうとしないどころか、声高に長老ユエの名前まで出してあからさまにピーノが動揺を誘ってくる。
「火は〈シヤマの民〉にとって禁忌なんだって。たかだか人間に扱い切れるようなものじゃない、そんなことを部外者でしかなかったぼくたちにまできちんと話してくれた。なのにハナ、きみときたらご覧の有様だ」
まったくもって笑えるよ、とにこりともせず彼は言った。
「無様な今のきみを見たら、エリオだってさぞかしがっかりするだろうね」
かつての友人とはいえ、この発言は到底看過できない。
怒りと哀しさにハナの体が震えだし、足元でも正確な拍子を刻みだす。
「あんたなんかにエリオとあたしの何がわかるっ!」
かすれた声での叫びも、ピーノは「ははん」と鼻で笑い飛ばした。
「少なくとも、きみよりエリオとの付き合いはずうっと長いんだよ。むしろきみの方こそエリオの何を知ったつもりでのぼせ上がっているんだか、妄執の類でなければぼくはそれを教えてもらいたいな」
そして彼は人差し指を曲げて「来いよ」とばかりに挑発してくる。
「怒った? だったらほら、自慢の炎で燃やしてみなって」
「そうね。お望み通り、焼き尽くしてあげればいいわ。骨も残らないくらいに」
立場は違えど、冷たい眼差しのセレーネも追随する。
二度と和解などできないくらいにここでピーノを傷つけたなら、エリオのことだって忘れられるのだろうか。彼のいない世界を受け入れられるのだろうか。
だったらすべて燃やしてしまえばいい。
激情の波に飲まれるようにして、ハナの舞踏魔術は加速した。七つの光点を浮かび上がらせ、標的を目の前の旧友へと定める。
次の瞬間、ピーノの足元から炎の柱が猛然と噴き上がった。
圧倒的な強さを誇る彼といえどさすがに逃れることはできず、燃え盛る炎の柱によって焼かれるがままだ。
ざまあみろ、と罵ってやりたかったハナだが、なぜか口から出てきたのはまったく違う台詞であった。
どうして避けてくれないの、と。