砕けて散った
手入れも何もあったものではなく、草が生え放題になっている中庭を横目に見ながら、ハナたちはロベール・メルランが所有していた邸宅内を悠々と進んでいる。館内には他に誰もいない。
セレーネ曰く「立ち入り禁止にされているから、いつも表だけを厳重に警戒しているのよ」とのことだ。
凄まじい悪臭が漂う旧式の地下水路から潜り込んでくる者がいるなどとは、市警隊としてもさすがに想定していなかったのだろう。
二人は階段を使って上へ、上へと向かった。
屋上に出て、そのままひしめき合う建物の屋根伝いにスイヤール政庁を目指す、というのがセレーネの立てた計画だ。もっとも計画と呼べるほどには洗練されていない単純なものだが。
「政庁にたどり着けさえすれば、そこから先は力押しで構わないのよ。あなたと私なら大抵の兵士はそれで片が付くはずだもの」
ピーノたち以外ならね、とセレーネが言い添える。
できるだけ一般人の犠牲者を出したくない、二人ともそう考えていたため街中での戦闘行動は極力避けたいのが本音だった。
だからこそ調印式を控えてお祭り気分で賑わっているはずの地上ではなく、大都市ならではの高い建築物が並んでいるのを利用して、目的地まで最短最速で到達する道を選んだのだ。
しかしいざメルラン邸の屋上へやってきてみると、どうも街の様子がおかしい。予想とはまったく異なり、息を潜めるように静まり返っているのだ。
「何だか妙ね……」
さすがにセレーネも怪訝そうだ。
確認すれば、眼下の街路に人がいないわけではない。ただしいるのは揃いの制服を着込んだ警備兵だけだ。それも尋常な数ではなかった。
道の交差している箇所には必ず複数人が配置されており、部外者を誰一人として通すまいという意思を感じる。
「街中にこれだけの人数を割いて、本命である政庁一帯にまで手が回るのかしら」
「あっちはレイランドとタリヤナだけで警護するのかもよ」
ハナの返答にセレーネも「なるほど」と頷いた。
「そういう割り切り方もありえるわね。ピーノにトスカ、加えてフィリッポやダンテまでいるんですから。ふふ」
一瞬ハナは自分の耳が聞き違えたのかと思ったが、確かにセレーネが笑みをこぼしている。
今からあのピーノと対峙するかもしれないと想像するだけで身震いするのに、いったいどういう心境なのだろうか。
これまで不要と判断して胸にしまい込んでいた問いを、あえてこの差し迫った局面で投げかけてみることにした。
「他の子たちはよくわからなくても、長く一緒にいたからピーノの強さなら知ってる。エリオもそうだったけど、あいつだって恐ろしいほどに強い。正直、あんたでも一対一じゃ勝てっこないよ。勝算あるの?」
「どうかしら」とセレーネはまだ微笑んだままはぐらかす。
「逆に訊ねるわ。ハナ、あなたは無念にも戦いに敗れて殺されてしまうとしたら、その相手は誰がいい? 誰だったら心から自分の死を受け入れられる?」
「え」
予期していなかった唐突な質問に、ハナも答えあぐねてしまう。
けれどもセレーネは彼女からの返事を待つことなく、そのまま駆けだした。
慌ててハナも猛然と追いかけ、二人は並走する形となってスイヤールの中心部へ向かう。事前の打ち合わせ通り、最初の目印とするのはスイヤール大聖堂。この街において最も高い鐘楼を擁する建造物だ。
消化不良となった先ほどの会話が気にかかるが、もうそんなことを悠長に話している場合ではない。思い出の何もかもを黒く塗り潰してしまうような戦いが、すぐそこにまで迫っているのだ。
高低差のある場所ではセレーネの助けを借りつつ、まったく見咎められることもなくハナは急勾配となったスイヤール大聖堂の屋根へとたどり着く。
一息入れたセレーネが口を開いた。
「ハナ、気づきましたか? 地上の兵士たちは明らかにこちらの姿を認識していても、何かしらの行動を起こそうとする素振りさえ見せませんでした。これはもう、そういう命令が出されているのだと考えるしかなさそうね」
「……ピーノ、それともイザークの差し金かな」
そう呟いたハナだったが、大聖堂前から辺り一面を占めている広場に、ぽつんと佇む人影があることに気づいた。彼女はその人影を知っている。
「セレーネ、ほら、あそこ見て」
ハナの指差す方角を見つめたセレーネも、同様によく知る人物のはずだ。
「あら。もうすっかりお待ちかねだったみたいね」
広場の中心地にいるのはピーノだった。遠目からでもよくわかるあの赤い髪を、しばらく一緒に暮らしたハナが見間違えるはずもない。
懐かしさと虚しさと怒りとがない交ぜになったような、ひどい感情を表面に出さないよう飲み込んで、努めて軽く声に出した。
「ピーノ、めちゃくちゃ目がいいからなあ。きっとあたしたちよりも先に見つけてるはずだよ」
「じゃあ、こちらも挨拶をしてあげましょうか。久々の再会を祝して」
そう言うなり、セレーネが鐘楼へと突進した。
跳び上がりながら腰に差した剣を抜き放つや、左下から右上へとぶった斬る。
傍から言葉を差し挟むことさえできないほど、あっという間の出来事だった。
摩擦音を立てながら鐘楼の上半分が斜めにずり落ち始め、とうとう鐘とともに落下していく。
地上へ向かって真っ逆さまだ。
「セス教ではね」と着地して剣を鞘へ収めたセレーネが言う。
「鐘の音は聖なる力を持つとされているの。だからこれは私からの贈り物よ」
次の瞬間、地面から轟音が響いてきた。ただし美しい鐘の音とは程遠い。
見なくてもわかる。鐘楼は粉々に砕け散ってしまい、鐘そのものも割れたか砕けたか、それとも醜く歪んでしまったか。
スイヤールの人々が折に触れて耳を澄ませてきたであろう鐘の音が、もう二度と戻ってこないのだけは間違いなさそうだった。