少女たちの噂話
野営には慣れている。というより、流浪の旅が人生そのものであった〈シヤマの民〉にとっては、むしろ街の宿屋の方が落ち着かないくらいだ。
スイヤールから幾分離れた土地で、ハナは動くべき時を待っていた。
人目につかないよう、細心の注意を払ってただ待つだけの静かな日々を過ごしていた彼女のところへ、ようやくセレーネが姿を見せる。
「もうじき始まるわ、ハナ」
出番よ、と告げて踵を返した彼女の背中を追って、ハナも二十日間ほどの野営生活にひとまず別れを告げた。
スイヤールの街に潜入し、情報を集めていたのはセレーネの単独行動だ。褐色の肌という目立ちやすい身体的特徴を持つハナはその手の仕事には向いていない。
けれども一人きりは寂しかった。見渡してもいるのは獣や鳥たちのみ、話しかけてくれる相手は誰もいなかった。避けているのだから当然の帰結だ。
いったいいつからこんな腑抜けた感情を持ってしまったのだろう、と戸惑いとともに自問自答する。
そんなハナの胸の内を見透かしたかのように、振り返ったセレーネが「あなたの覚悟を疑っているわけではないけれど」と釘を刺してきた。
「今から私たちは、レイランド王国とタリヤナ教国による平和条約の調印式を襲ってぶち壊します。でもきっとそこには──」
「心配無用、何度も言わせないで。ピーノとだって戦ってみせるよ」
セレーネの言葉を苛立たしげに遮り、語気を強める。
彼女の心はエリオを失ったあの日に欠けた。開いた穴はきっともう元通りになんてなりはしない。彼女の肉体が朽ちるまで。
頭痛に眩暈、そして吐き気。気が狂ってしまいそうだ。
ただし自分だけでなく、セレーネだって同様であるのをハナは理解している。貴族然とした穏やかな態度こそ崩さないが、彼女の内側にも容易に鎮められない炎が燃え盛っているのだ。
エリオなら「傷の舐め合いなんざやめとけ、やめとけ」と言うだろう。
ピーノへ刃を向けることを絶対に良しとしないこともわかっている。
だからといって今のハナには他にどうすればいいのか、まったく見えてこない。ただ何もせず立ち止まっていると、心の穴から這い出てきた禍々しい虫に唆されて目につくものすべてを黒く塗り潰してやりたくなる。
こんな女を、エリオが愛してくれたりはしない。
◇
セレーネが使ったスイヤール市内への潜入経路は、随分と古びた地下水路であった。鼻がもげてしまいそうなほどにひどい臭いがする。
「巡回の兵士が通る時間はちゃんと調べてあるわ」
焦らず、確実に歩を進めるセレーネに付き従う形でハナも続く。
とある建物の地下室に忍び込み、ようやく悪臭の中での道行きが終了した。
かつて倉庫だったらしい地下室は恐ろしいほどに広く、空になった酒樽だけがあちらこちらに転がっている。間違って開けた部屋にはなぜか血の跡も残っていた。
この建物はね、とセレーネが説明してくれる。
「富める者の多いスイヤールでも屈指の豪邸なんだけど、ちょっとした事情から現在は使われていないのよ。買い手も借り手も名乗りを上げず、ただ放置されて荒れ放題の大きな邸宅。こっそりねぐらにするにはうってつけでしょう?」
「それってあんたの言う『ちょっとした事情』が関係しているの?」
地下室に血の跡とくれば、持ち主がまともな人物でなかったことくらいはハナにだって察しがつく。
「ご明察」とセレーネは言った。
「ロベール・メルランという、スイヤールの裏社会を束ねていた男よ。犯罪の見本市みたいなどうしようもない悪党だったらしく、政府にも財力と脅迫で食い込んで長年この街に君臨していたらしいわ」
「そんなクソ野郎のお屋敷だったのに、どうしてこんな有様に?」
ハナの疑問を受け、セレーネは少しだけ楽しそうな笑みを浮かべた。
「ピーノの仕業みたいよ。ロベール・メルランと組織上層部の連中が広間に集まって宴を催していた時、彼がまとめて皆殺しにしたそうなの。組織から目を付けられていた娼館の用心棒として」
ああ、とハナは嘆息した。
彼女の知るピーノという人間であれば、それくらいはやる。普段は消極的な性格にも映る態度なのだが、ひとたび決断したなら躊躇いなく行動に移す。
だからこそ、エリオの死に際して彼が見せた柔弱さに、ハナも身勝手なわだかまりを抱えてしまったのだ。
「一階の奥に惨劇の舞台となった広間があるのだけど、寄ってみる?」
まるで「観光でもしようか」みたいな気楽さでセレーネが言う。
彼女もまた苛烈な人間であり、ウルス帝国の名門であった自分の家族を始末している。もっともセレーネが凶行に至るまでの事情を知れば、そうなるべくしてなったどうしようもない一家だったわけだが。
「そんな時間の余裕はないんじゃないの」
つっけんどんな返事になってしまったのは否めない。
ただセレーネに気にした様子はなく、「やっぱりそうかしらね」とすぐに先ほどの提案を引っ込めた。
「でも考えてみて。あのピーノに、そこまでさせてしまうくらいに守りたいものが今はあるってことなのよ。娼館で大勢の女性たちと暮らしているだなんて、聞くだけで随分と楽しそうな生活じゃないかしら」
ずるいわよね、と彼女が肩を竦める。
「死んでしまったエリオのことだって、たぶんもうどうでもいいのよ」
ハナは答えなかった。
ピーノがエリオを忘れて生きているとは到底想像できないし、したくもない。
あの二人には、時にハナでさえ割って入れないと感じてしまうほどの、とても強い結びつきが存在した。世にどれだけ多くの血を分けた兄弟たちがいようと、彼らの絆はそれらを凌駕していただろう。
それなのにピーノは新しい繋がりを見つけたというのか。
唇をきつく噛み締め、初めて味わう感情が胸に巣食っているのをどうにか見ない振りでやり過ごそうとする。