沈黙するスイヤール
各国要人を迎えるために設けられているスイヤール政庁の豪華絢爛な大広間で、レイランド王国とタリヤナ教国による平和条約が結ばれる運びとなった。
マダム・ジゼルの館で深夜の会談が開かれてから、数えてたったの七日だ。
目まぐるしいほどの速度で事態が動く中、ピーノはいつになく入念な根回しをしてセレーネとハナの襲撃に備える態勢を整えていた。
といってもそれは手厚い警備で万全を期すことを意味しない。あくまでピーノ個人の私的な事情を優先させるためだ。
レイランドとタリヤナに関しては、いざとなれば泣き落としも辞さないつもりで交渉に臨んだ。だが拍子抜けとさえ感じられるほどに、双方ともすんなりピーノの要求を受け入れてくれている。
「もちろん構わんよ。ピーノくんが積極的に動くのであれば、我々やスイヤールの警備兵は邪魔にならぬよう、むしろ補佐に回った方がよさそうだ」
キャナダインが即座にそう答えれば、ニルーファルも続いて首を縦に振る。
「私もキャナダイン外務大臣に同意します。どんな状況であれ被害を最小限に留めること、それが何より優先されなければなりません」
ナイイェルに対して口を滑らせてしまったのと同じ人物とは思えぬほど、大国を代表する外交使節団の正使らしい振る舞いであった。
両大国の許諾を得たとなれば、スイヤール政府も反対はできない。
調印式のための舞台提供についてもネリー・プランタンが奔走してくれたようだ。イザークやマダム・ジゼルから圧力を掛けられたにせよ、彼女に感謝しなければならないだろう。
ダンテ、フィリッポ、そしてトスカの三人にも話は済ませてある。
それぞれに異なった役割を頼み、全員が納得した上で引き受けてくれた。
「やれるだけやった。後は見ててよ、エリオ」
調印式を翌日に控えた夜、ピーノはスイヤール政庁前の広場の中心に立ち、今は亡き友の記憶を呼び覚ましながら星空を眺めていた。久々に満天の星だ。
明日、必ずセレーネはやってくる。以前にイザークからもたらされた情報が確かであれば、おそらくハナも同行しているだろう。
眠ることができず、誰よりも長い夜を過ごしてきたからこその対応策はある。
仮にあっけなく策が破られるとすれば人質をとってきた場合だろうが、彼女たちならば決してそのような作戦を選ばないだろうと断言できる。
それでももし、レイランドとタリヤナの外交使節団及びマダム・ジゼルの館で暮らす誰かが危害を加えられてしまったら、その時は悲しいほどに人を見る目がなかったピーノの負けだ。
◇
朝までピーノは政庁前の広場で立ち続けていた。
この日の正午前には都市国家スイヤール元首の立ち会いの下、レイランド王国とタリヤナ教国が平和条約の調印を行う。
タリヤナ教国側はもちろん外交使節団の正使を務めるニルーファルが出席するのだが、体調面の不安もあるためレイランド王国の正使である外相キャナダインはやってこない。
「もはや私の出番など必要ありますまい。これからは若い方々の時代ですので」
仕事は終わりましたのでな、とイザークと同じようなことを言っていた。
ピーノからすると、あの二人は何だかんだで芯に似通った部分がある。きっと本人たち、特にイザークは認めようとしないだろうが。
代わって大役を果たすのは外相代行のボイドだが、問題はない。彼も今回の和平交渉に対しては最初から前向きであり、新たな大戦を防ぐための平和条約の発効が持つ意味を理解している。
両大国の間を取り持った形のスイヤール政府にとっては、紛れもなく輝かしい外交上の成果であり、本来であれば大勢の市民も祭りのごとき喧噪とともに歓迎したことだろう。
しかし朝陽がすっかり上ってきても、ピーノ一人しかいない政庁前広場は静まり返っていた。いるはずの警備兵もまったく見当たらない。政庁内でのみ、要人たちを迎えるための準備が滞りなく進んでいるはずだ。
歴史的な一日には不釣り合いなほど、スイヤールの街は沈黙している。
ぽつんと広場に立つピーノだけが周囲へ目を凝らし、その時を待っていた。