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娼館の用心棒ピーノ  作者: 遊佐東吾
8章 娼館の用心棒
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月光

 レイランド王国とタリヤナ教国による交渉の最中(さなか)、マダム・ジゼルの館では異変が生じていた。正確には館の近辺で、である。

 コレットやナイイェルとともにしばらく別室で控えていたトスカだったが、たまたまその時は少し席を外して館内を見回っていたのだ。


 夜更けにもかかわらず表の通りから大きな物音が聞こえ、続いて激しく馬が嘶いた。レイランド王国外相キャナダインの乗っていた馬車の馬たちだろう。

 おそらく最も奥まった場所に位置している応接間へは音も届いていまい。ならば状況の確認をするのは自分が適任だ。

 そう判断したトスカはすぐに外へと飛び出していく。


 月が雲に隠れ、星もほとんど見当たらない暗い夜だ。だが異変の正体に気づくのにさほどの時間はかからなかった。


「ダンテ!」


 石畳の上で倒れているかつての仲間の名を呼び、慌てて駆け寄った。


「あなたほどの人が、いったいどうして」


「おいおいトスカ、おれより強い奴なんざ何人もいるっつの」


 上体を起こした様子を見るかぎり、重傷を負っているわけではないらしい。ただ先ほどまで彼の背中があった石畳は粉々に割れている。相当の衝撃だったはずだ。


「おれのことはいい、早く追え。セレーネがいた」


 痛がる素振りもなく、ダンテが簡潔に要点だけを話す。

 思わずトスカも息を呑んだ。


「──いたの?」


 ああ、と答えたダンテは調子を確かめるように首を鳴らした。


「不審な人影があったからまあ近づいてみるよな。そうしたら『久しぶりね』ってやけに懐かしい声がするじゃねえか。しかも随分と親しげな声音でさ。で、おれもほんのわずかに油断して『おまえ、もしかしてセレーネか』って不用意に距離を詰めちまった。したら情けねえことにこのザマよ」


 話は以上だ、とばかりに彼はトスカに向かって手で払う仕草を見せた。


「わかったなら急げ急げ。セレーネからは戦う意思っつうか、そういう気配がまるで感じられなかったんでな。あいつの実力で逃げに徹されたら厄介だぞ」


「ありがとう。じゃあ、行くね」


 駆けだすトスカの後ろで「おう」という短い返事の余韻が遠ざかる。

 ダンテにはダンテの仕事がある。今の彼にとって、最優先すべきは恩人といっていい政治家キャナダインの護衛だ。

 それに、とトスカは思う。

 セレーネと向き合って話ができるのは、きっと自分しかいないのだと。


       ◇


 まったくの曇り空というわけではなく、時折雲の切れ目から月が顔を覗かせる。

 その機を逃さず、トスカは路地の先にある人影を視界に捉えた。

 人影は立ち止まったまま動かない。だがトスカが接近すると、軽快な動きで壁を伝い建物を上っていく。


 もう間違いないだろう。人影はセレーネで、しかもトスカを誘っている。とはいえ選択肢がない以上、誘いに乗ってついていくのみだ。

 建物の屋上に出たところで、人影がようやく声を発した。


「ねえトスカ、今夜の月は何だか寂しそうに見えるわね」


 やはりセレーネ・ピストレッロだ。共に日々を過ごした頃と変わっているようにはとても思えなかった。少なくともトスカには。

 刺し違えてでも彼女を止める、その覚悟はまったく揺らいでいない。けれどももし、セレーネが自ら戦いの継続を放棄するのであれば話は別だ。きっとピーノだって納得してくれるはず。

 セレーネを長い悪夢から目覚めさせるための最後の機会なのだ、とトスカは自らに言い聞かせた。


「月はいつだって寂しげだよ、セレーネ」


 うかつなことは口にできないという重圧のせいか、口内がやけに乾いて声も掠れてしまう。


「そうかしら。たくさんの星々が煌めく夜は、その中にあってもひと際大きな輝きを放って我が世の春を謳歌しているようにも見えるのだけれど」


「でも、月は太陽があってこそだから。太陽の光の目映さを知っている地上の諸々へ、闇夜を照らすささやかな明かりを送り届けてくれているのが月。夜にだけ小さく輝く、束の間の光。でもきっと、月はそれで満足なんだよ」


 自分とセレーネの関係のようだ、という想いは胸の内に留めておく。もちろん太陽がセレーネ、月がトスカ。

 なのにセレーネの見解はまったく逆だった。


「じゃあ月ってまるで私みたいね。で、太陽があなた」


「え?」


 あまりの驚きに、つい普段通りの声が出てしまう。


「え、じゃないでしょう。あなたがいてくれなければ、私なんて性根の曲がった貴族の娘でしかなかったのよ。居場所も与えられなかった偽物の貴族ですけど」


 セレーネが自身の手で皆殺しにしたピストレッロ家。しかし今、その話題を持ちだすのはあまりにも場にそぐわない気がして、トスカは再び月について口にした。


「認められない。仮にあなたが月だとしても、その場合のわたしは小さな星だよ。決して太陽なんかではなかったはず」


「意固地な性格は相変わらずね」


 セレーネが苦笑いを浮かべているのがわかる。

 まだ彼女との距離はあるが、一歩分だけ前に詰めたトスカは手を差し出す。


「お願い、こっちに来てセレーネ。今ならまだ間に合う。レイランドとタリヤナの和平交渉を潰して戦争を継続させようとしたって、きっと最後はあなたが両方の標的とされてしまうだけ」


「やっぱりこちらの狙いは読まれていたのね」


 別に問題はないけれど、と静かに彼女が言った。


「トスカの言った通りになるかもしれないし、そうならないかもしれない。どちらも一枚岩ってわけではないのだから。例えばレイランドでもタリヤナでもいい、軍の中で戦争を望む勢力と一時的に手を結ぶ選択だってあるもの」


「そんなの、あなたが最も嫌っていた連中じゃない!」


 すらりと伸びた腕も宙ぶらりんのまま、トスカは叫んだ。

 それでもセレーネの態度に変化はなく、淡々としているようにさえ感じられる口調で続けていく。


「私はもう、何が好きで何が嫌いだったのかをよく覚えていないの。自分のことなのにね。すべてがぼんやりしていて、もう死んだヴィオレッタの顔さえちゃんと思い出してあげられなくなってきているのよ。みんなと過ごした日々は夢か幻か、そのどちらかだったんじゃないかしら」


「セレーネ……」


「あら、おしゃべりしている間に月がまた雲の中へ隠れてしまいそう」


 潮時みたい、とセレーネが夜空を見上げる。


「近いうちにまた会いましょう。決着をつけるならそこで」


「待って!」


 トスカの呼びかけも空しく、躊躇うことなくセレーネは地上へと飛び降りた。

 再び月明かりが遮られたせいで、彼女の姿は闇に溶け込んで消える。

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