いつだって大事なことは夜に決まる〈4〉
マダム・ジゼルことシャーロット・ワイズが、扉の取っ手を握ろうとしたままの姿勢で固まっている。
残る四人、レイランド王国とタリヤナ教国を代表する使者たちもしばらく沈黙を守ったままだった。ランプの中の火だけがゆらゆら揺れている。
おかしいな、とピーノは一人首を捻った。
「いい案だと思うんだけど。これならどっちの言い分も満たしているわけだし」
「もちろん我がタリヤナは諸手を挙げて君を歓迎します。望外の結果ですから」
やっと反応したのはニルーファルだ。
「君さえそれでよいのなら、私たちは今すぐにその提案を受諾いたしましょう」
「認められるものか!」
またしてもボイドが反対の声を上げ、無遠慮にピーノを指差す。
「彼のような飛び抜けた実力を持つ兵士が、あろうことかタリヤナ教国での身柄預かりになるなど、みすみす見逃せるはずもないだろう!」
「口を慎み給えボイドくん!」
己の体調の悪さを顧みず、キャナダインが声を荒げた。彼が怒りを露わにしている姿はピーノも初めて目にする。
「君は大変な考え違いをしている。ピーノくんは兵士ではなく、この館でワイズ家のお二方をはじめとする女性たちを守護する者だ。その決断に対して我々外部の人間にできるのは、理を尽くした真摯な説得のみ。だが、今の発言のどこに理があったと言えようか」
「お言葉ですがキャナダイン様」と今度はボイドも退かない。
「ダンテなる者と、ウルス帝国皇帝暗殺を成し遂げたこちらの少年。仮に先ほどの案を容れるのであれば、両国が飛び道具を保有しているようなものですが、その能力に厳然たる差がありますまいか」
キャナダインが再び反論しようと口を開きかけるが、ピーノは手で制した。
「ダンテを手放すのはだめ、ぼくがタリヤナへ行くのもだめ。いったい何をどうすれば納得できるの? ねえ、この場で片腕くらい引きちぎったら考えも変わる?」
「ひっ」
ピーノからの脅しに、ボイドは表情を目いっぱい引きつらせてしまう。
「うそうそ、やらないよ。冗談に決まってるじゃない。そんなことしたら部屋が汚れるし掃除だって大変なんだから」
一転して朗らかに振舞い、肩を竦めてみせた。しかしボイドの顔は依然として強張ったままだ。嘘だって言ってるのに、とピーノは少し口を尖らせる。
そんな中、ずっと扉の前にいたシャーロットがようやく戻ってきて、ピーノのすぐ隣で立ち止まった。
「私、いつの間にかピーノがずっとここにいるのが当たり前だと思ってしまっていたんだなあ」
バカだねえ、と寂しげに微笑む。
それでも彼女はゴルヴィタ共和国統領の娘であり、スイヤール中に名を轟かせる娼館の主、マダム・ジゼルなのだ。
ピーノの肩をそっと抱き寄せながら彼女が言った。
「どうか皆様方、この子の覚悟を汲み取ってください。そして選択に敬意を払ってください。たとえ人質同然の身になろうとも、自分の手で守れるものすべてをこの子はただ力の限りに守ろうとしているのです」
いつだってマダム・ジゼルは奮い立つような言葉をかけてくれる。眠れないいくつもの夜、どれだけ彼女に救われてきただろうか。
だからこそピーノも、きっと最後になるであろう戦いへ、透き通るほどに穏やかな心持ちで臨める。
彼女の愛ある熱はどうやらニルーファルにも伝わったようだ。
「ご心配には及びません。我がタリヤナは誠心誠意、ピーノくんを迎えさせていただきます。もちろん客人として、です。兵器のごとき扱いなど、このニルーファルが断じて許しません」
「なあに、いずれニルーファル様はもっと上にまで行かれる方。そうなれば貴国との関係も今より風通しがよくなると思いますよ。そこまでを凌ぐ暫定的な提案として、戦力均衡案は非常に有効じゃないですかね。将来のタリヤナ指導者に恩を売るって意味でもここは一つ、ピーノ少年の心意気に応えて手を打ちませんか?」
非公式とはいえ外交の場らしからぬざっくばらんな物言いで、メフラクもここぞとばかりにレイランド側へ畳みかける。
ボイドは賛同しているとは言い難い顔つきのままだが、今回の交渉においてレイランド王国としての決定権を有しているのは彼ではない。
キャナダインが静かに目を閉じる。
「スイヤールまで老いぼれが出しゃばった甲斐も、少しはありましたかな」
この瞬間、難渋していたタリヤナ教国とレイランド王国の和平交渉が、急転直下の成立へと向かって一気に走りだした。