いつだって大事なことは夜に決まる〈1〉
ついに役者が揃うとあって、事態は手際よく進行した。
ニルーファルとメフラクの二人も密談のごとき交渉を快諾し、レイランド側は外相代行のボイドが同席するのだという。その際に彼は「なぜ娼館などで大事な話をせねばならぬのか」とぼやいていたそうだが。
スイヤール政府に知られて大仰な出迎えになってしまうのは避けたかったため、タリヤナ教国外交使節団担当の役人ネリー・プランタンには内密である。
理由は単純だった。キャナダイン外相の体力がどこまでもってくれるか、定かではないからだ。余計な些事に彼を付き合わせるわけにはいかない。文字通り命を懸けて、この場へたどり着こうとしている。
来る会談の立役者といっていいイザークは「キャナダイン殿には……大仕事に集中してもらおう」とやや硬い笑みを浮かべていた。最後の、という言葉を飲み込んだようにピーノには見えてしまった。
「ここで決められなければ、和平の好機はきっと遥か彼方へ遠のいてしまう」
そして夜がやってくる。
すでに応接間へはニルーファルとメフラク、それにボイド外相代行も先に集まっており、間に入ったコレットが場を繋いでいる。今宵ばかりは捨てたはずの旧名であるルーシー・ワイズとして。かつてのゴルヴィタ共和国統領の娘たちが娼館を経営していると知って、ボイド外相代行もさぞ驚いていたに違いない。
準備は万端、後はキャナダインの到着を待つばかりだ。
館にいる大方の者は自室で過ごし、四名だけが入口の扉付近で静かに待機していた。マダム・ジゼルにイザーク、少し離れてピーノとトスカ。
フィリッポは変わらずスタウフェン商会の警護に当たり、ナイイェルはコレットの補佐として応接間の傍で控えている。
タリヤナ教の白、セス教の黒。両色を巧みに配したドレスに身を包んだマダム・ジゼルの姿は、いつもより一層艶やかに映る。
イザークが誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「まるで夜会だな」
しかしさすがにマダム・ジゼルも耳聡い。
「それって褒めてるの? からかってるの?」
「もちろん前者だとも。一度でも俺がおまえをからかったことがあったか?」
「はん、年をとると忘れっぽくなっていやね」
澄ました顔でイザークを詰るジゼルの横顔からは、彼女が胸の内にずっと秘め続けている愛情を窺い知ることはできない。
そんなやりとりが終わって再び静寂が戻るかと思いきや、すぐに馬車の車輪の軋む音が聞こえてきた。ピーノも改めて身を引き締める。
けれども馬車が建物の前へ着くよりも早く、いきなり扉が開かれた。
「おう、邪魔するぜ」
声の主はダンテであった。遠慮なくずかずかと入ってきた彼へ、見兼ねたようにイザークが注意する。
「こら。もう少し礼儀を弁えた入り方ってものがあるだろうが」
「何言ってんだ、イザークのおっさん。どこであれ、最初に扉を開けて危険がないかどうかを確かめるのがおれの役目みたいなもんだろ」
ピーノからすれば意外に思えるダンテの発言だ。
おそらくはキャナダインに危害が加えられることのないよう、率先して自らが飛び込んでいくという意味であろう。
以前の彼であれば、ここまで他者へ気を配ったりなどしなかったはずだ。
「ちょっと変わったね、ダンテ」
「あん? どこがだよ」
相変わらずのぶっきらぼうな口調だが、彼の視線がピーノの隣で留まる。
「まさかトスカに会えるとはな。フィリッポの野郎もいるんだって?」
「うん、久しぶり。フィリッポは別の場所だけど」
トスカも短く挨拶する。
軽く左手を上げて応じたダンテだったが、そのまま腕はピーノの首に巻きついてぐいっと引き寄せる。
低い声で彼が言う。
「エリオのことは残念だった」
ピーノの背中を一度だけ叩き、すぐに離れた。
「まあ、心変わりといえばそうなのかもな。さすがにおれだってバカなりにいろいろ考えたさ。このまま隠遁生活を送っているだけでいいのかってな。残りがさほど長いとも思えねえ人生だ。死んでいった連中に恥じない、有意義な生き方をしてえじゃねえか」
エリオやリュシアンたちの死は決して無駄ではない。むしろその逆であり、いろいろなものの礎となって、生き残った者たちにその意思が受け継がれているのだ。
燻るだけだった失意の日々を重ね、マダム・ジゼルの館へやってきたことでやっと気づけた。人生の幕が閉じる最後の瞬間まで、ピーノの歩みはいつだって彼らとともにある。
「さ、もうすぐジェイクの爺さんがやってくる。出迎えてやってくれ」
ダンテに促され、ピーノとトスカも大人たちのすぐ傍へと近づいた。ジェイク・キャナダインと初めて会ってからまだ一年と少ししか経っていないのだが、もう随分昔のことに感じられて仕方ない。
今度はゆっくりと扉が開け放たれていく。まず姿を見せたのは従者であるグレン・アドコックだ。
そして彼に半身を支えられるような形でキャナダインも登場する。
しかしその風貌は、ピーノが知るかつてのものとは大きく異なっていた。小太りだったはずの体形はめっきり痩せ細ってしまい、顔色は青白く頬もこけている。変わっていないのは揉み上げの立派さだけだ。
大病を患っているとは聞いていたが、レイランドからスイヤールまでの長旅を敢行したこと自体が奇蹟に思えるほどの容姿である。
足取りも覚束ない中、キャナダインは初めて口を開いた。
「やはり長生きはしてみるものですな。お会いしたいと願っていた二人に、こうして巡り合わせてくれたのですから。ピーノくん、そしてシャーロット嬢」
精いっぱいの力を振り絞っているのであろうかすかな笑みには、以前の溢れんばかりの愛嬌の名残りが垣間見えた。