シャーロット・ワイズ
扉が閉まるのとほとんど同時だった。
「あまり趣味のいい冗談とは思えないんだけど」
マダム・ジゼルの私室へ招かれたピーノの第一声だ。
クロエやナイイェルに対し、これからさも性的なことを行うかのように匂わせた先ほどの発言の件についてである。
だが非難めいた視線を向けられていても、ジゼルはどこ吹く風で肩を竦める。
「別に冗談ってわけでもない。君が望めばいつでも応えるし」
「だからそういう冗談を止めてってば!」
「ふふん、お子様め」
可愛いったらありゃしない、と言いながら大きな革張りのソファーへ沈みこむように腰掛けた。
そして彼女は自分のすぐ横にあたる位置をばしばしと叩く。
「何ぼけっと突っ立ってんの。ほら、早くおいで」
「え、え?」
まるでジゼルの意図がつかめず、ピーノとしても困惑するしかできない。
「あーもう、そんなに身構えないで。別に取って食うわけじゃなし、ちょっと触れ合いながら話をしようってだけのことだよ」
「……まあ、本当にそれくらいなら」
おそるおそる、マダム・ジゼルへと近づいていく。
ソファーの前までやってきて、少しの間ためらってから彼女の隣へ遠慮がちに座ろうとした、その時。
「つかまえたっ」
抱きつかれるようにして彼女の両腕に捉えられてしまう。さすがにジゼル相手だと力ずくで振り払って脱け出すわけにもいかない。
ただ、いやな気分ではまったくなかった。
顔を寄せてきたジゼルとくっついた部分からは彼女の温もりが伝わり、何やらほのかに甘くて頭が痺れるような香りもする。
大人の女性の匂いだ、とピーノは思った。母親とも違う、〈名無しの部隊〉の仲間たちとも違う、大人の女性。それ以外に形容する語彙を持ち合わせていない。
「……嘘つき」
口ではそう詰りながらも、居心地の良さを感じているのは認めざるを得ない。
そんなピーノの内心を見透かしているかのように、ジゼルが「大人は結構嘘をつくものさ」と軽やかに応じる。
「でも問題はないんじゃないかな。こうやってぎゅっと抱き合ったままお話しするくらいなら、コレットだって咎め立てしないはずだからね」
「でもクロエやナイイェルからは邪推された挙句にぼくが怒られるんだ、どうせ」
「それだって君のことを好ましく思っていればこそじゃないか。黙って怒られてあげれば済む話だ。簡単だろう?」
一瞬、ピーノの脳裏にはトスカの顔も浮かんだ。
そして盛大なため息をつく。何もしていなくても、謝らなければならない局面だって世の中にはあるのだと諦めた。どことなく大人っぽくはあるかもしれない。
至近距離でジゼルがくすりと笑う。
「いい子だね。さて、二人で夜を楽しむとしようか」
話題はもう決めてあるんだよ、と彼女は言う。
「昔話なんてのはどうかな。私がまだ、シャーロット・ワイズと名乗ってゴルヴィタで暮らしていた頃の話さ。ちょっと長くなるかもしれないけれど」
ピーノにしてみればどうせ眠れない夜なのだ。長いくらいでちょうどいい。
少しだけセレーネやハナのことから離れ、程よく体の力を抜いた。そして抱き止める形となっているジゼルへと身を委ねてみる。
◇
ゆっくりと、記憶を確かめるように時々立ち止まりながらジゼルが話し続ける。
顔もわからないうちに死んでしまった母のこと、ゴルヴィタ共和国統領の地位にあった父のこと、新しい母となったリタのこと、同じく姉妹となったルーシーのこと。ピーノが知るコレットのかつての名だ。
そして彼女が初めて恋したイザークのこと。
逃げるようにゴルヴィタを去り、両親の惨殺という辛い出来事を経て、マダム・ララなる女傑に拾われそれまでの名前を捨てたこと。
波乱万丈の半生を静かに語り終えたジゼルは、ずっと抱き締めっぱなしであったピーノの体からようやく腕を放した。
「ごめんね。こんな話に付き合わせてしまって」
久しぶりに見た気がする彼女の顔はいくらか上気していた。
首を横に振ってすぐに否定し、ピーノは言う。
「聞けてよかった。ぼくは本当に、何も知らないんだなって改めて思う」
イザークがゴルヴィタ共和国の守りを担う傭兵隊長であったのさえ初耳だった、と率直に告げる。
その言葉にどことなく自嘲する響きがあったからなのだろうか、再びジゼルが顔を寄せてきた。
「あの人なりの気遣いじゃないかな。だって彼はとても優しい人だから」
ジゼルがイザークへの愛情を口にするのは、ピーノの記憶にあるかぎりまだ二度目だ。素面ならば初めてである。
「いつもそれくらい素直ならいいのに。イザークだってきっと喜ぶし」
「今夜は特別。次に会った時は、きっとまた文句ばかり言ってるよ」
「ああ、その様子が目に浮かぶようだね……」
でしょ、と彼女は頬を緩める。
しかしすぐにその眼差しが淡い憂いの色を帯びた。
「名前を捨てて記憶の底に深く沈めたつもりでも、不意にやってくるんだ。過去の自分と今の自分とは分かち難く結びついていて、結局は切り離せないんだって否応なく実感してしまう瞬間が。どこまでいっても私はゴルヴィタ共和国統領だったブライアン・ワイズの娘シャーロットであり、同時に娼館の主マダム・ジゼルなの」
彼女のしなやかな指がピーノの赤い髪に触れてとかしていく。
「君も私も、他の人に比べればほんの少しだけ自分の力が届く範囲が広い。幸か不幸か──いえ、決して幸運なんかではなかったけれど、きっと苛烈な過去の出来事が土台になっているんだろうね」
「ほんの少し、か」
言い得て妙だ。
確かにピーノには他の誰をも圧倒できるだけの戦闘能力がある。エリオもニコラもいない現在において、もはや対等に渡りあえる存在がいるとも思えない。
セレーネであれハナであれ、ただ戦って止めるだけなら何一つ悩むことなどないのだ。ただしそれだけではピーノにとって胸を張れる勝利とは程遠い。
何もかもをこの手で護れる力があるならば、とどれほど願ったことか。
耳元でジゼルの声が柔らかく響いた。
「いいかい、懸命に差し出した君の手はきっとかつての友人たちに届く。私はそう信じるし、もちろん助力も惜しまない。やれることはすべてやる。だから焦ってはだめだよ。勝負どころを見極めて、粘り強く待つんだ」
まるで彼女には何もかもお見通しのようであった。
クロエやナイイェルへ無意識の暴言を吐いてしまうほど焦燥していたのが嘘のように、ようやくピーノは落ち着きを取り戻していた。
とても敵わないなあ、と内心で呟きながら。