一度くらいは
キャナダイン不在となるレイランド王国外交使節団で団長を務めているのは、外相代行であるボイドという男であった。
イザークによれば「優秀だが、大きな決断ができるかどうかは心許ない」との評価になる。政治家よりは官僚向きだとも。
そのレイランド王国とタリヤナ教国の和平交渉が始まったとはいえ、三日が経過した時点ではまだ確たる成果は発表されていない。
しかし五日、七日、九日とさらに日数を経ても変わらなかった。何の動きも起こらず、両大国の威信と実益を懸けた交渉はすっかり停滞している。
スイヤールの口さがない人々は「贅沢な料理を食べ、気まぐれに踊り、片手間に祈っているだけの連中」と双方の使節団を揶揄することしきりだ。
けれどもピーノは知っている。ニルーファルやメフラクらタリヤナ教国使節団の顔には徐々に疲労の色が濃くなっていることを。
決して誰も物見遊山気分などでやってきてはいない。彼女たちは自身の政治生命を賭して、ここスイヤールへと足を踏み入れているのだ。
タリヤナ側の宿舎であるマダム・ジゼルの館は素性を偽りながらトスカが、同様にレイランド側はフィリッポが襲撃に備えてこっそりと待機している。ピーノは交渉の舞台であるスイヤール政庁を護りつつ、夜はどちらの宿舎に異常が発生してもすぐ駆けつけられるよう中間地点付近にある建物の屋上で見張り続けていた。
そしてまた陽が落ち、十二日目が無為に過ぎた。
一向に和平交渉は進んでいないのは仕方ないとして、予想されていたセレーネとハナの襲撃もわずかな気配さえない。
さすがにピーノも精神的に疲弊している。自身の感情を上手く抑制できず苛立ちを覚えていた。間断なく警戒しているのだから、当然といえば当然だろう。たとえ眠れずとも休息は必要なのだ。
和平交渉の開始以来初めて、一息つくことを目的としてマダム・ジゼルの館へいったん戻ることにした。
◇
ピーノの姿を見つけて真っ先に駆けつけてきたのは、まだ起きていたナイイェルとクロエの二人だった。
おそらくトスカは別棟の娼館部分を宿舎にしているタリヤナ使節団と、付かず離れずの場所にいるはずだ。
「やっと帰ってきた!」
今にも泣きだしそうな顔でクロエがそう叫べば、ナイイェルも「よくもまあ、これだけ心配をかけられたものね」と苦り切った表情で口にする。
彼女たちを目にして安堵したはずのピーノなのだが、ささくれだった心情のせいか抑揚のない声となって出てきたのはまったく別の意味となる言葉だった。
「いちいち騒がないでよ、鬱陶しい」
あれ何で、とピーノが自分を不思議に思った瞬間、ナイイェルによって横っ面を力いっぱい張られてしまった。
「謝って」
毅然とした態度でそう言い放ってくる。
もちろんピーノはすぐさま頭を下げた。とても深く。
「ごめん。あんなことを言うつもりは全然なかったんだ」
「や、ほら。ピーノだって疲れるんだから仕方ないよ。そういうこともあるって。ね、ナイイェル」
間に入ってきたクロエがとりなし、気色ばんでいたナイイェルも長くゆっくりと息を吐きだし、それから「ごめん」と呟いた。
「わたしも怒りたかったわけじゃない。本当に心配だっただけ。なのに……」
ごめん、と彼女らしくもないしおらしさでもう一度言う。
それっきりピーノとナイイェルはともに俯き加減となって沈黙してしまい、クロエだけがあたふたと双方に声をかけながら何とか空気を変えようと奮闘していた。
だがとうとう匙を投げる気になったか、「もう!」と声を張り上げる。
「じっと見ているだけじゃなく、マダムも少しくらい手助けしてくださいよぉ」
慌ててピーノがクロエの視線の先へと振り向けば、そこには腕組みをして壁にもたれかかっているマダム・ジゼルが立っていた。
彼女の口元はわずかに綻んでいる。
「いやあ、溢れんばかりの若さを堪能してたからさ」
大人の余計な口出しも野暮かなって、と冗談めかして言い放った。
さっそくクロエとナイイェルに詰め寄られるも、余裕の笑みを浮かべて軽くいなしている。マダム・ジゼルの前では彼女たちとて文字通りの子供扱いだ。賑やかな光景をピーノは一人同じ場所に突っ立ったまま、ただ静かに眺めていた。
そんな彼へ不意に声がかけられる。マダム・ジゼルだ。
「ねえピーノ、ちょっと時間をもらえるかな」
館へ帰ってきたところで特に何かをするつもりもなかったため、彼女からの誘いに深く考えることなく「大丈夫」と頷く。
それを聞いてジゼルは「よかった」と形容しがたい表情を見せた。娼館の主らしく妖艶であるような、一方で幼いレベッカみたいに無邪気であるような。
スイヤールの男たちの誰もが魅了されて止まない、と称される彼女の美貌をピーノも初めて実感として理解する。その手の事柄にはとんと疎いにもかかわらず。
ジゼルの場合は美しいだけでなく、存在感の大きさがまるで異なるのだ。
「じゃあ今から私の部屋へおいで。せっかくここで暮らしているんだ、きみも一度くらいは娼館らしいことを体験すべきだよ」