嵐の前の静けさ
ピーノの心はずっとざわついている。
レイランド王国とタリヤナ教国の間で始まった新しい戦争に、セレーネのみならずハナまで関与している線が非常に濃厚だとイザークから聞かされてからというもの、彼の目に映る風景は錆びついた鉄のような色合いになってしまった。
それでも日々は淡々と過ぎていく。
この日、レイランド王国に先んじて、タリヤナ教国の外交使節団がスイヤール入りを果たしていた。
スイヤール市警隊によって先導されながらゆっくりと目抜き通りを往く、白一色の馬車の列を一目見ようと沿道には多くの人々が集まっている。いずれの箱型馬車にも樹氷を象ったタリヤナ教国の紋章入りの旗が掲げられていた。
もちろんピーノもこの場に居合わせ、車列と歩調を合わせた早足でついていく。依頼を受けたわけではないが、護衛のためだ。
現在、マダム・ジゼルの館はタリヤナ教国外交使節団の受け入れを目前に控え、大きな緊張感に包まれている。重要な役割を担うナイイェルはもちろんだし、クロエたちにだっていろいろと仕事はある。
トスカとフィリッポも、かつてウルス帝国の〈名無しの部隊〉にいたのをひた隠すべくコレットによって偽の素性を叩きこまれていた。今頃はその最終確認を行っていることだろう。
二人にも開戦の背景については伝えている。黙っているわけにはいかない。
フィリッポからは密かに「カロージェロやアマデオたちにも声をかけて集めてこようか」と提案されたが、ピーノは少し気持ちが揺らぎながらも断った。間に合わない可能性を否定できないし、フィリッポの一時離脱によって生じる戦力の穴は大きい。
護る、ということに対してここまで不安を覚えるのはピーノにとっても初めてのことであった。
「ほらほら、あんまり難しい顔をするもんじゃない。さすがにこれだけの人がいるところを襲ってはこないさ」
そんなピーノの肩を叩いたのは、久々に顔を合わせたディーデリックである。
スイヤール政府と綿密な打ち合わせを重ね、様々な食料を各地から運びこみ、ようやく本番が始まるところまでこぎ着けた。
嵐の前の静けさの間に一息入れるべく、ピーノを訪ねてふらりとマダム・ジゼルの館までやってきたのだった。
まだこの街に留まっているイザークもそうだが、スタウフェン商会は総力を挙げて今回の和平交渉を成功させようとしているらしい。
彼ははしゃぐレベッカを肩車しており、すっかり真っ白になってしまった髪のせいか傍目には祖父と孫娘にしか見えない。今日初めて会ったばかりの二人なのにもう随分と仲がよさそうだ。
通りの端を歩きながらピーノは肩を竦めて応じた。
「うん。ぼくもそう考えてるんだ、頭では」
「今から張り詰めていたんじゃ、大事な場面で切れてしまうぞ。本番はレイランドの使節団がやってきてからだろうしな」
「だよね。わかっているんだけどね」
煮え切らない返事ばかりを繰り返すピーノに痺れを切らしたか、ディーデリックは強硬手段に出る。
「なあレベッカ、ピーノはあの綺麗な馬車を見てても全然楽しくない、ここにいてもつまらないってさ」
「えー!」
ディーの頭上にいるレベッカがすぐに憤慨した。
これは狡い、とピーノも一瞬顔をしかめそうになる。しかしすんでのところでどうにか堪え、歩く速度を徐々に緩めていった。
そしてレベッカの小さな手をとり「ごめんね、ちゃんと楽しむから」と素直に謝った。ただしそれだけでなく、ディーへの意趣返しも忘れない。
「レベッカ、ぼくの方においでよ。その人はもうおじいちゃんだから、ちょっと肩車しただけでも疲れているんじゃないかなあ」
すぐ横から「おまえ……」という声が聞こえてくるが、もちろん無視だ。
けれどもレベッカから返ってきたのは想定外の答えだった。
「ううん、まだいい。ピーノより高くてよく見えるもん」
「ぐっ」
痛いところを突かれてしまった。背丈のことを言われるとピーノとしても辛い。
対照的にディーの方はこれまでに見たことがないほど上機嫌だ。
「そうかそうか、レベッカはやっぱりこっちがいいか」
ようし、と彼が新たな提案をした。
「もうしばらく眺めたら、ちょっとソフィアの家へも寄っていこう」
これを聞いたレベッカは「やったー!」と両手を振り上げて大喜びである。
チェスターもディー同様、今日はしばらくぶりの休日らしい。激務のため何日間も身重のソフィアが待つ家へ帰れていなかったという。
しかしピーノはふと気づいた。
「あれ? ディーってソフィアとはずっと会っていなかったんじゃ」
「ジゼルたちやイザークから聞いてないのか? 半ば無理やりにあの二人の結婚の立会人をさせられてな、まあ、なんだ。いつでも歓迎するので絶対に訪ねてきてほしいってその時に言われているんだ」
「なるほど。恩人だもんね、二人にとっては」
「ん、いらんことは聞いているんだな。イザークめ、相変わらず口の軽い野郎だ」
軽く眉をひそめてみせるディーだが、目は優しげに笑っている。
「でも、俺も年食ったなあと実感するよ。仮に子供がいれば、こういう気持ちになるんだろうなあって思っちまうんだから。傭兵時分からじゃ考えられねえ」
「そういうの、いいと思う」
ぼくは好きだよ、と俯き加減になりながら呟く。
◇
チェスターとソフィアの二人から歓迎され、平穏で楽しい午後の時間を堪能してからピーノ一人だけがスイヤール政庁へと向かった。
タリヤナ教国の外交使節団を招くが公式な政治の場としてではなく、あくまでスイヤール首長による私的な晩餐会が催されるのだ。その宴が終了すれば一行はマダム・ジゼルの館へとやってくる。
至る所に配置されている市警隊の警護は厳重だが、セレーネとハナが相手となればそのようなものに何の意味もない。ただ犠牲となる人間が増えるだけだ。
ディーも指摘した通り、彼女たちならば軍や政治と無関係な一般人を巻き添えにして襲ってきたりはしないだろう。けれども裏を返せば、そうでない者たちにとっては大きな脅威となる。
油断なく政庁付近を警戒し続けたピーノだったが、どうやら晩餐会もつつがなくお開きとなり、出てきたタリヤナ教国の一行は再び馬車へと乗り込んでいく。だが今度は昼間の真っ白な塗装を施された馬車ではない。一般人も利用している、通常の目立たない馬車であった。
そして日が沈んだ夜の道を、マダム・ジゼルの館目指して走りだした。